第122話 我を投じて爾を得る
「こんなに大々的にやることないのにね。女優辞めるだけで他の仕事は続けるのに」
「仕方ないでしょ? ヒナちゃん有名になり過ぎちゃったんだし。頑張ってきた証だよ」
女優引退会見が一時間後に迫り、楽屋では葵がヘアメイクを施している。
エゴサーチなんてしたことないから、普段の世間の反応は分からないけれど……それはそれは大層な騒ぎになっているらしい。
「それに……みんな寂しいんだよ。ヒナちゃんの演技が見られなくなっちゃうのが。最近のヒナちゃん、特に可愛かったから。私だって、ファンの一人として辞めてほしくないもん」
他人の反応を見ない、相手にしない、気にしない。
そう決めて十年間やってきたけど……私が考えている以上に、私は求められているんだと実感している。
少しだけ湿った空気が漂う中、それをブチ壊す勢いでドアが開く。
三日間禄に寝ていないと言っていた栞が、栄養ドリンクを片手に入ってきた。
「入るよー。ヒナ、くれぐれも余計なことは言わないでね。頼むから今日だけは女優日向晴を演じ切って頂戴。もう本当にお願いします。早く私を寝かせて下さい。分かった!?」
「ふふっ、はいはい…………そういえば、初めての仕事もこの三人だったよね」
「そうそう。仕事初日にペーペーの栞がヘアスタイリスト探し忘れてたから、専門学校卒業したばかりの私にヒナちゃんが声かけてくれたんだよね。泣きながら土下座してきた栞は忘れられないよ」
「結果的に良かったでしょ? 良い時も悪い時も……アンタ達がいたからここまで来れたんだし」
柄にもない台詞を言う栞の頬は赤く染まり、その瞳は少しだけ揺らいで見えた。
罪悪感、胸の奥がチクリとした。
そんな私を挟むように、栞と葵が私を強く抱き締める。
「ヒナ、アンタが幸せになってくれれば私達はそれでいいの」
「何があっても、ヒナちゃんの味方だからね」
鏡に映る私達に、十年前の姿が重なって見えた。
半べそをかいている栞、台本と栞を交互に睨む私。それを見て笑っている葵。
戦友であり、上司であり、同僚である……私の大切な、友達。
全く……そんなつもりなかったのに……
「もー、会見前に泣いちゃうじゃん……」
「泣け泣け。見てて清々する位人間らしくなっちゃってさ。そういえばあの子は?」
「今日はいつも通りに過ごしてって、お願いしてあるから。だから私もいつも通り……ふふっ、心の準備完了」
「だからその惚気た花を咲かせるなって言ってんの」
◇ ◇ ◇ ◇
赤信号がいつもより長く感じた。
薄暮の空、降り始めた雨が連想させる愛しき待ち人。
ワイパーの速度が一つ速まるにつれ、連動されていく私の鼓動。
いつもより慎重に駐車すると、一つ大きく溜息をついた。
小走りで玄関へ向かった理由は、雨に濡れてしまうからだけでは無い。
持っている鍵を使えばいいだけなのに……チャイムを使うわけでもなく、二回優しくノックした。
頬を赤らめた待ち人は、その気持ちを悟られないようエプロンの袖を握りしめ、笑顔で私を出迎えた。
「おかえりなさい。少し濡れてしまいましたね。お風呂にします……日向さん?」
いつも通り。
そんな私の言い付けを守っている健気な姿が愛しくて……言い出しっぺの私は守れずに、強く強く彼女を抱きしめた。
応えるように彼女もまた、強く強く抱き返してくれる。
それから背中を優しく撫で私の手を引くと、全てを包み込むような微笑みと共に彼女は囁いた。
「ふふっ。一緒に……入りましょうか」
◇ ◇ ◇ ◇
いつも通り、私お気に入りの入浴剤で満たされた湯船に向い合わせで浸かる。
そんなつもりは無かったけれど会見で緊張していたらしく……私の中で滞っていたものは、触れ合う彼女の柔らかな肌がゆっくりと溶かしていく。
内存が、自然と流れ出る。
「今日……どうだった?」
「ご立派でした。泣きすぎて目が腫れてしまいました。どのテレビ局も日向さんの会見を映していましたが……改めて、本当に多くの方々に慕われていらっしゃるのだと…………」
言葉尻、少しだけ俯く彼女。
辞めないで欲しい、皆口を揃えて言っていると葵から聞いた。
勿論テレビでもそんな声は流れているだろうし……その言葉に、彼女が負い目を感じているのが伝わってくる。
彼女だけの日向晴でいたい。
辞めようと思ったきっかけは、確かにそうだった。でも今は……それだけじゃない。
「ホントはね、女優を辞める理由がもう一つあるの。笑わないで聞いてくれる?」
絡まる指は強く結ばれて、どこまでも真っ直ぐな瞳が私を見つめている。
そうだよね、雫が笑うはずない。いつだって全力で私と向き合ってくれる雫だから……だから、好き。
「あのね……これから先に待ってる幸せ全て、雫と一緒じゃなきゃ嫌なの。雫が大学を卒業するなら、私も一緒に女優を卒業したい。新しい一歩を踏み出すなら、同じ日に同じ場所で。ずっとずっと、全部全部、雫と一緒だよ。重たい……かな……?」
大きな瞳から今にも溢れ出てしまいそうな幸せを堪えて、彼女は優しく微笑んだ。
「…………人の想いに質量があるとするなら、私の重さも負けてませんよ? ……晴さん、不束で至らない私ですが……末永く、愛してください。よろしくお願いいたします」
深くお辞儀をするその姿が、どうしようもない程に堪らなく愛しかった。
指先で彼女の顎をもちあげて、おでこ同士を重ね合わせる。
その美しい瞬きも吐息も、彼女の全てを……
「全部……全部、頂戴。死ぬまでの一秒だって後悔させないから」
「ふふっ、とっくに差し上げてますよ?
「もー……言ったなぁ? 楽しみに覚えておくから」
満ち溢れ行き場をなくした幸せたちが、涙粒となってゆっくりと流れていく。
その幸せを噛みしめるよう、触れ合う唇も私達も深く深く重なり合い……一生涯をかけて、一つになっていく。
あの日以降、トイレに行く時でさえも離れようとしなかった彼女は、十年経ってもその癖が抜けなかったりして……
でも、そんな彼女を見るたびに抱きしめてしまうのは私の癖。
そんな先に待っている幸せを、あの日の私は露知らず。
会見の疲れと湯でのぼせてしまい、ソファの上で目を閉じていた。
「日向さん、明日の……日向さん?」
狸寝入り、タイミングを見計らって抱き寄せようと思っていたのに……
「……晴さん、大好き── 」
唇に柔らかな感触がして、私の顔は熱くなっていく。
薄っすらと目を開けると、狸寝入りに気が付いた彼女は、私以上に真っ赤に染まっていた。
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