第118話 あなたとわたし 幸せの一歩

 

 ◇  ☼  ◇  ☼  ◇

 

「では行ってきます。十二時頃大学を出る予定ですので、お昼は先に食べていてくださいね」


「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」


 頬同士を擦り合わせ、私達だけの挨拶をする。意味は沢山あるけれど……今の意味は、“行ってらっしゃい、行ってきます”。

 それから“大好き”。

 玄関のドアノブに手をかけた彼女は、振り返り目を瞑る。

 三十秒程唇を重ねると、顔を赤くしながら笑顔で出掛けていった。



 ◇  ☼  ◇  ☼  ◇



 ヨガをしたりピアノを弾いたり、ポンちゃんと遊んだり。

 早く帰ってこないかなぁ………………栞からの着信だ。


「はいはいこちらヒナちゃんです」


『つまんない声してんのね。あの子は学校?』


「御名答。で、なに?」


『今度の会見の時に使う台本諸々準備出来たから取りに来なっていう電話』


 いよいよ私の女優引退会見が迫ってきた。

 公にはされていないことだけど、あちこちで噂はされているらしい。 

 まぁ手回しされているから質疑応答なんて全てが台本通りなんだけど……


『……ヒナ、そこにいていいの?』


「えっ? どういう……」


『やり残したことは無いかって聞いてんの』


 その言葉に、彼女の顔が浮かぶ。


「いやでも……会見近いし……いつも口酸っぱく “用心しろ” って言ってくるのはそっちじゃん……」


『いいよ。好きにしなさい』


「それは社長の言葉? それとも栞の?」


『……みんなの言葉だよ。みんな最近の生き生きとしたヒナが好きなの。想い出だからって事務所総出で台本作ってたんだけど……途中で馬鹿らしくなっちゃって。こんなくだらないモノ読ませて……今のヒナを否定したくない。好きなことを好きって言って欲しい』


 散々私の我儘を聞いてくれていたのに……こんな私のことを慕ってくれる、大切な……仲間達。


「……いいの?」


 みんなの笑っている顔が思い浮かぶ。

 それから口を揃えてこう言うのだろう。


『ヒナ、行ってきな』



 ◇  ☼  ◇  ☼  ◇ 



 パステルブルーの可愛い自転車。籠はお洒落な籐籠とホワイトアイアンが組み合わさっている。

 背負ったデニム生地のリュックには、魔法瓶に入れた温かいコンソメスープ。それに、たまごサンドとツナサンドを大きめのパックに詰めた。どちらもマヨネーズ多めで……彼女を想って作った、私の手作り。

 少しずつ、料理が出来るようになってきた。いつだって隣で優しく寄り添ってくれる彼女がいてくれるから……

 私は、可愛い女の子になれる。


 ポンちゃんに彼女お手製の服を着せ、ハーネストを付け籠に座らせた。

 胸の高鳴りを加速させるように、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。



 ◇  ☂  ◇  ☂  ◇



 講義のお手伝いや書類の提出が終わり、気が付けばお昼近く。

 少しでも早く終わらせて日向さんと昼食を……なんて思っていたけれど、頼まれごとが増えていった結果この時間。

 “嫌な時は断るんだよ?” と日向さんに言われていたけれど……

 “でも、そんな雫も好き” と仰った日向さん。

 ふふっ、そんな風に言われたら断れないじゃないですか。

 身支度をして帰ろうとした時、あなたの匂いがした。

 振り返ったその景色に……落葉が、止まって見えた。


「日向さん……? それにポン助も……どうして……」


「雫、お疲れ様。一緒にお昼ごはん食べよ」


「で、ですが構内に動物は……」


「分かってる」


「それにマスクや眼鏡は……今のままでは他の人に……」


「ふふっ、それも分かってる」


 それはお家にいるような……殆どメイクをされていない日向さん。仲良くポン助とお散歩しているその姿はいつも私が見ている、いつも通りの日向さんで……

 混乱してしまう私だけど、優しく微笑むあなたの瞳にその理由が映し出されていた。

 だから、それ以上は聞かない。

 あなたが微笑んでいるなら、私も同じように微笑みたいから。


「……何か持ってきてくださったんですね?」


「あのね、サンドウィッチ作ってきたの」


 自信満々の愛らしい笑顔。

 きっと、あなたお手製の素晴らしいお弁当なんですね。


 

 ◇  ☂  ◇  ☂  ◇



 学生たちが当たり前に使う普通のベンチで当たり前のように振る舞う日向さん。だからでしょうか、意外と気が付かれません。


「見てみて! たまごサンドとツナサンド作ったの♪」


 いつでも可愛いあなた。でも今日が一番可愛い。だって、今日が一番好きだから。

 肩を寄せ合い指を絡ませて、仲良く交互にサンドウィッチを食べる。

 少しマヨネーズが多い……あなた好みの、素敵な素敵なサンドウィッチ。


 あなたの鼻先についたマヨネーズ。そんな姿が愛しくて、私も真似してつけてみた。それを舐め回すポン助。

 二人して笑い合う、幸せな時間。


 ゼミの後輩である女生徒二人が、私達のもとへやってきた。

 

「雨谷さん、さっきの講義で分からない所があって教えて欲しいんですけど……」


 自然すぎる日向さんに、二人とも気がついていない。

 暫く解説をして講義内容を理解してくれた彼女達は、私達の絡まる指が気になったようで……


「あのぉ……お二人は……」


 困ってしまい日向さんを見ると、優しく微笑んだ後私の耳元で囁いた。

 耳まで赤くなる。でも、あなたが望まれるなら…… 

 

「わ、私のこ、こ、恋人です……」


 隠れる穴も無く、俯いて髪の毛でカーテンを作る。

 暫くすると、二人とも日向さんだと気が付いた。


「あの……日向晴さんですよね?」


 私は忘れません。

 この日見た、あなたのとびきりの笑顔を。

 

「うん。私ね、雫が大好きなの。ふふっ、私の恋人……可愛いでしょ?」


 私を自慢するあなたの顔は、幸せで溢れていた。


 女優と大学生。

 そんな肩書はもうすぐ終わってしまう。

 それは、私とあなたが出会った特別な肩書。


 出会って間もない頃、初めて行った映画館であなたの主演作品を見た。

 見終わった際に言っていたあなたの言葉……あなたはずっと、苦しんでいた。


 “芸能人なんだし、その……色々大変でしょ? だから私といるのも大変かなとか── ”


 無知な私は、今日あなたが踏み出した一歩で漸く気付かされた。


 好きです。私だって大好きです。


 これから先何回も言える言葉かもしれないけれど……当たり前だけど、今言える好きは今しかない。

 

 人気女優と女子大生。

 日向晴と雨谷雫。

 あなたとわたし。


 簡単で複雑で、特別で当たり前な今をあなたは求めている。

 

 自然と向かう先はあなたの頬。

 頬同士が触れ合うこの意味は……初めて触れたあの日と同じ。

 あの日踏み出せた精一杯の一步が、この恋の始まりだった。

 だから今日も、精一杯の一歩をあなたと。


「私も晴さんが大好き。私の晴さん……可愛いでしょ?」


 愛しい程耳まで赤く染まるあなた。

 強く優しく手を握り直して、あなたの頬へキスをした。

 

 どこまでも、どこまでも広がる碧霄へきしょう

 澄み切ったあなたの瞳には、いつまでも私が映っていた。

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