第92話 六月一日 東京発 午後三時三分指定席
“五月三十日”
今日から五日間、日向さんは映画の撮影で遠方へ向かっています。
朝から晩まで撮影が行われるそうで、簡単に帰ってこれる距離ではないそうです。
つまりどういうことかと言うと……
「寂しいです……日向さん……」
初日の夕方、日向さんの匂いがするタオルを抱きしめながらソファで丸くなる。
こんな調子で五日持つのだろうか……
“五月三十一日”
朝、隣にあるはずの温もりを無意識に探して目を覚ます。
いないと分かっているのに名前を呼んでしまう。
朝食の準備、いつもどおり炊いてしまった二人分のご飯。
私一人では多すぎる。それに……
この部屋は、私一人では広すぎる。
◇ ◇ ◇ ◇
このままでは寂しさで溶けてしまいそうなので、紛らわすためにパペットを作ってみた。
日向さんを模したパペットひなちゃん。
うん、可愛く作れました。
さっそく手を入れて会話をする。
「こんにちは、ひなちゃん」
【こんにちは、雫。今日は一人なの?】
「うん、日向さんはお仕事で遠くにいるんだって」
【ふふっ、じゃあ私が一緒にいてあげるね。よしよし】
「…………ふぇぇん……日向さんに会いたいよぉ……」
寂しくて虚しくて、パペットひなちゃんを抱きしめる。
寝る前、お休みなさいの電話だけが唯一の楽しみだけれど……
切り終わった後に込み上げてくる気持ちを抑えられなくて、二日連続で大泣きをした。
“六月一日”
寝る前に泣いてしまったので、目が腫れてしまいました。
耐えきれず、パペットしずくちゃんを作って一人寂しく疑似的な触れ合いをした。
……早く、触れてほしい。
優しくて温かい、柔らかなあなたの手が恋しい。
我慢出来なくなった私は、あるものに手を伸ばした。
机の上に置いてある封筒。
出かける前に日向さんが「どうしても寂しくて我慢出来なくなったら、これを開けてね」と仰っていたから。
本当は初日から開けたかったけど、私なりに頑張って……でも、もういいですよね?
重量のある封筒の封を切り中身を確認すると、私の中で滞っていた何かが流れ始め……思わず、時計を確認する。
あんなにゆっくりと動いていたはずの秒針は、私を急かすように摺動性を増してゆく。
それからクローゼットとにらめっこ。
あれこれ考えているが、頭の中はあなたでいっぱい。
答えは必然的に決まった。
お気に入りの服、お気に入りの髪型、お気に入りのお化粧。
全て、日向さんのお気に入り。
だから……私もお気に入り。
不慣れなタブレットで何とかタクシーを呼び、彩さんにポン助たちのことをお願いした。
玄関ドアを開けると、眩しいほどの太陽が空高く輝いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
あなたが残した封筒は、私への愛で溢れていた。
タクシーチケットが二つ、それから音楽再生機にイヤホン等。
先ずはタクシーチケットを一つ使い、東京駅にやってきた。
おまちから溢れ出る喧騒も、目まぐるしく変わってゆく人の流れも、両の耳から聞こえてくるあなたの歌声が優しく緩やかにしてくれる。
約七百kmの大冒険。
あなたに会えるなら、あなたに会えるから。
家で封筒を開けた時刻は午後一時。
その中には新幹線の切符が入っていた。
六月一日 東京発 午後三時三分指定席。
あなたは、私がいつ限界が来ていつ封筒を開けるのかを予測していた……
ううん、予測なんかじゃない。
私のことを誰よりも理解して、何よりも愛してくれているから……あなたにはこの景色が見えていたんですね。
人混みが苦手な私の為に……タクシー、音楽、とても高価で人の少ない特別な指定席。
それに……紙に書かれたホテルへ、二つ目のタクシーチケットを使い……二枚入っている新幹線の切符で二人一緒に帰る。
あなたからの愛でいっぱいになってしまい、発車を待つ車内で涙が溢れ出る。
きっとあなたのことだから、私が驚くような場所で私を出迎えて……強く抱きしめてくれる。
私にできることは、精一杯抱き返して……溢れた愛を言葉にすること。
ドアが閉まり、列車はゆっくりと動き出す。
この旅情に、少しだけ浸りたくなってしまう。今だけは……素敵な物語の登場人物だから。
あなたが歌う恋愛歌を一緒に口遊みながら、あなたの元へ。
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