第40話 ただ、それだけの事
土曜日の朝、とあるモノが我が家に届く。
その代物に、彼女と新入りの狸は興味津々。
「わぁ……お洒落なアップライトピアノですね……どうしてこれを?」
「………今度ピアニスト役でドラマに出るんだけど……弾き真似でも、画の中の私は本物のピアニストだから、四六時中触っていたくて……どうしても時間が無いの。仕事を持ち込むなんてしたくないのに……ごめんね」
ここは彼女と私だけの空間だから……女優じゃなくて、彼女だけの日向晴でいたいから。
両立出来ない自分の弱さが悔しくて、涙が数滴頬を伝う。
指で優しく拭ってくれる彼女は、慈愛の笑みで包んでくれる。
何も言わずに抱きしめてくれるのは、私の全てを受け止めてくれているから。
慰める訳でもなく、同情する訳でもなく。
只々優しく、抱きしめる。
足元にも温かい感触がした。
「ふふっ、アンタも真似してるの?」
私の足に抱きついてくる狸。
張り詰めていたモノが緩み、持っていたちっぽけなプライドは優しく解けて行く。
「よし、じゃあちょっと練習しようかな」
難しい事はない。
格好つけづ、素直になる。
◇ ◇ ◇
初心者用の教本をゆっくりと進めていく。
右手と左手が違う動きになると、大抵そこで立ち止まってしまう。
彼女は気を利かせて離れているが、狸は不思議そうな顔をして隣で聞いている。
「ふふっ、下手くそでしょ?」
応援しているのか、両手を摺り合わせている。
健気な姿に、焦る気持ちは消えてゆく。
気が付けば2時間程練習していて、晴れていたはずの庭からは雨音が響いていた。
コーヒーのいい匂いが漂ってくる。
「お疲れ様です。アイスとホットどちらにしますか?」
私には出来すぎた恋人。
そんな彼女が誇らしい。
「そういえばさ、よくアップライトなんて言葉知ってたね。もしかしてピアノ習ってた?」
「は、はい……その、少しだけですが」
「雫の弾いてる姿見たいな。ダメ?」
断れない事を分かっていて聞いてしまう私は、随分と意地悪なのかもしれない。
でも仕方ないよね。
困った顔も好きだから。
「久々なので緊張しますね……」
椅子の高さを調節する姿、背筋を正し鍵盤に指を置く様は、凛として美しい。
ピアノをじっと見つめている。
少し間をおいて、彼女は庭を眺めた。
雨音は次第に彼女の音へ変わっていく。
役が決まってから、クラシック音痴の私はひたすらに情報を詰め込んだ。
小さな頃、音楽室に飾られていた偉人達は知れば知るほど、偉大な作曲家達なのだと痛感させられた。
私が一目惚れで購入した70年前のビンテージピアノ。
フランス生まれのそれは、彼女が演奏している曲の作曲家と同じ故郷。
ドビュッシー作曲 “雨の庭”
美しいその姿に、只々見惚れていた。
◇ ◇ ◇
「あれ、なんか違うな……」
「一緒にやってみましょうか。左手だけでいいですからね」
優しく丁寧で、私に寄り添って指導してくれる。
彼女が教師だったなら、もっと勉強が好きになっていただろう。
……私といる事で、彼女の可能性が一つ一つ消えてゆく。
部屋に飾ってある、美しい生花。
小さなメモには達筆な文字。
彼女の父が激怒したのも、理解出来なくは無い。
彼女の努力を、私が食い潰している。
横目で見ると、嬉しそうな顔で指を動かす彼女がいた。
「ピアノ、好きなんだ?」
「……いえ、嫌いだったんだと思います。父に言われた事、それをこなす事は当然だったので。でも思い返すと、嫌でした」
いたずらっぽく微笑む彼女に、心を奪われる。
鍵盤上で、指同士が絡み合う。
「でも、私がやってきた事がこうして日向さんと繋がっているんだと思うと、嬉しくて……その……」
「ん?」
「……恋をするって、幸せな事ですね」
難しい事は無い。
「ふふっ、じゃあもっと幸せにしてあげる」
ただ、それだけの事。
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