鍋奉行というやつら

あざらし

第1話

 鍋奉行、と呼ばれる人種がいる。

 誰しも聞いたことくらいはあるだろう。とはいえ知らない人がいる可能性も否定はできないので、簡単に付記しておくことにしよう。

 ざっくりと言えば、鍋物を囲むときにやたらめったら指示したがるやつのことだ。食材を入れるタイミングや、火の強さや、雑炊の作り方などなど、大多数の人類が大まかな感覚でやってのけることに対して、やつらは強靭なこだわりを見せる。だしの取り方がどうとか、肉を入れるタイミングはこうとか、やれ白菜から食えだの、やれ雑炊の卵は溶きすぎるなだの、とにかくやかましいったらない。

 適当に作ってもちゃんとうまい、しかも確定で団欒が得られるおまけ付き――鍋物に対してそういう期待を持って接する人にとってみれば、奉行さま方なんてのは目の上のたんこぶになる。なにせこだわりは細かいし、人の作り方にけちをつけるので空気がまずくなってしまう。

 しかし、奉行のいる食卓とて、実は悪いことばかりではなかったりもする。

 ここだけの話、奉行が作った鍋、それも奉行の思うとおりに作れた鍋というのは、本当にうまいのだ。おれはそのことを知っている。もしかすると、日本でいちばんよく知っているかもしれない。

 なぜって、うちの親は自他ともに認める鍋奉行だったのだ。それも驚くなかれ、どちらかではない。父親と母親、その両方が、筋金入りの。


 不思議なもので、鍋奉行というのも分派しているものらしい。うちの親父とおふくろは鍋をするたびにケンカしていた。お互いに譲ることのできないこだわりがあり、それらは異なっているらしく、ガスコンロの火の具合や野菜の切り方や、そういうもののひとつひとつを取り上げては、喧々諤々、言葉同士で斬り合っていた。斬り合いは食事中だけでとどまるものの、そのあとは寝るまで冷戦状態が続くのだから、まったく大した熱量だと思う。

 あんまりヒートアップしそうなときはさすがに仲裁に入らざるを得なかった。たかが飯だろう、ムキになるんじゃねえや、そう言ったおれは両方からこっぴどくどやされる羽目になった。

 そういうわけで、うちで鍋をやるときというのはちょっとしたイベントの様相を呈した。親父とおふくろが揃いの戦闘衣装を身に付け、おれはおれで覚悟を決める。だしを取り始めたら開戦である。おれは首をすくめながらできあがりを待った。

 そんなに揉めるならやらなければいいと、よそからは思われもするだろう。おれだって当事者じゃなければきっとそう思うもの。でも、うちの家で、冬場の夕飯といえばずっと水炊きが定番だった。

 なぜかって、鍋奉行というやつらは、べつに食卓を気まずくしたくてそうしているわけではないのだ。やつらは鍋が好きなのだ。好きが過ぎるあまり、そういうふうになってしまうだけ。うちの親父とおふくろもそうだった。そして、そういうやつらの作った鍋は驚くほどうまくて、だから、おれだって鍋は好きなのだった。一家揃って好きなメニューなんだ、やらない方が変だろう。

 おふくろの味。おれの場合、それは親父の味でもある。


 久しぶりに実家に帰る予定ができて、おれはしきりにその懐かしい味を思い出していた。


 ##


 在来線のホームに出るや、おれの吐息は真っ白く夜のひと角を染めた。長野の冬が寒いことなんて身に染みて知っているはずだったが、凍みる空気は服を透過するかのようで、やけに堪えた。首に巻きつけたマフラーに顎をうずめ、手荷物は小脇に抱えてかじかむ手をポッケに突っ込む。おれは待合所の自動販売機で缶コーヒーを買った。プルタブを起こし、ちびりちびりとやりながら改札を出る。相変わらず、駅前通りは寂しげな風が吹いている。せせこましいロータリーのそばにはいくらか雑居ビルが建ってこそいるが、入っているテナントは眼鏡屋や個人塾で、賑わうようなものではない。風上からからから音を鳴らして、アルミの空き缶が転がってきた。拾い上げた缶と自分で干した缶とをまとめてゴミ箱に放り込む。がらんがらんとその音が、想像よりもはるかに高く鳴り響いた。静かな夜だった。

 ぽちぽちと突っ立つ電灯が、扁平に広がる夜の暗がりに白く淡く穴を空けている。穴を覗き込むようにして、おれは帰途をたどっていく。穴の底に目新しいものなんてありはしない。だけど、懐かしい思い出が浮かんでいたりはする。駅から実家への道は、おれがガキのころに使っていた通学路とほとんど重なっている。照らされた道の端々に、そのどこにも、既視感が重なっていく。いろんなものが思い起こされる。しょぼい神社の鳥居とか、雑草で荒れ果てた空き地とか、壁に落書きのある駄菓子屋とか、なんでもかんでもが懐かしいったらなくて、それでおれはようやく、ずいぶんこっちに帰ってきていなかったことを思い出せた。

 手土産に買った大吟醸のケースにそっと指を這わせる。それなりに値段の張るものを買ってきたつもりだったが、これでは足りなかったかもしれない。とはいえ、いまさらほかのものを用意する余裕はなかった。この辺にはもう店がないし、まず手持ちもないのだ。親父には我慢してもらうことにしよう。

 懐古の親しみが閾値を越える寸前で、実家に帰り着いた。実家とは呼び鈴を押すものだったろうかと不安になり、とりあえず押してみる。うちの呼び鈴は古ぼけているので中と通話する機能なんてついちゃいない。どかどかと足音を鳴らしてどてらを着た親父が玄関口まで出てきた。

「おう」

「うす」

「なんだよ、チャイムなんぞ鳴らしやがって。勝手に上がってこいや」

 どうやら、いままではそうしていたらしい。おれは適当にああとかうんとか応えながらスニーカーを脱ぐ。上がりかまちに足をかけると、ぎしりと軋む。乾ききった木の匂い。実家だなあと思う。

 薄ぼけた廊下の明かりの下で、親父の背中はずいぶん小さくなったような気がした。大学を卒業したとき、親父とおれの上背は同じくらいだった。縮み始めた親父は後頭部を見下ろせて、その髪にぴんぴんと跳ねる白い毛が光った。

 台所に入ると、ガスストーブの焦げた匂いが鼻をかすめる。片隅で稼働しているストーブはおれが家を出る前からずっと使われ続けている年代物だ。荷物もおろさずにおれはその前にかがみ込む。冷え切った手と足が先端からじんわり温もって、じんわりかゆくなる。

「……おふくろは?」

 背中の方で、親父はなにかをがちゃがちゃと言わせながら「居間にいるよ」とぶっきらぼうに言った。のろのろと振り返ると、カセットコンロの準備をしている。火の付き方を確かめると舌打ちをして、ガスボンベを取り替えた。

「鍋すんのか」

「しみるだろ、今日」

「うまいの作ってよ」

「誰に向かって言ってんだ?」

 なにがしかの職人みたいなせりふには、笑ってやるしかなかった。

 身体をしこたま温めたあと、荷物は食卓の椅子に預け、おれは大吟醸だけ持って居間につながるふすまを引いた。

 居間は普段、客間としても使っていた。八畳の中央に背の低いテーブルがあって、その周りに四つか五つくらい座布団が並べられている。テーブルには丈の足りていないクロスが敷かれ、その上にごく小さなサボテンのポットが飾ってある。――確かそういう配置だったはずだが、いまは諸々が片付けられて、代わりに部屋の真ん中にふんわりと膨らんだ布団が寝かせてあった。枕元には真新しい仏花が飾ってある。そのそばに大吟醸を置き、おれは甘やかな花の匂いに線香の乾いた香りを混ぜた。

 白い布をめくると、おふくろが眠っていた。おだやかに見える顔に、あっさりとした化粧が施してある。おふくろはもともと色白だったけど、よりいっそう顔色を白くして、まるで雪みたいだと思った。おそるおそる触れた頬は雪よりも冷たい。

 おれはおふくろの耳元に顔を寄せて、ごめんな、と言った。ありがとう、とも。おふくろは返事をしない。目を開けることすらない。隣の部屋から暖気が忍び込んでくる。頬に当たるぬくもりと、指先に触れる冷たさとを比べて、泣きそうになった。

 尻には根が生えたように、おれはずっとおふくろのそばにいた。親父が飯の支度ができたと呼びに来るまで、ずっと。


 親父の作った水炊きを、おれと親父の二人だけで囲んだ。

 驚くほど静かな食卓だった。うちは食事をするとき、平気でテレビを点ける。今日だってきらびやかなスタジオで、有名なタレントが騒いでいる。それなのに、静かだった。遠い賑やかさが、かえっておれたちの静けさを際立たせているようだ。

「急過ぎるよな」

 親父がぽつんと漏らしたひとことに、おれは「せっかちなんだよ」とかろうじて言った。

「鍋の作り方も、そうだったわ」

 おれはおたまを使ってまず豆腐をすくい取った。親父が手ずからこしらえたゆずポンに浸し、切り分けたひとかけらを口に放り込む。

 だしとゆずポンを存分に味わえる豆腐が、おれはいちばん好きだった。

 紛れもなくうまい。

 それなのに、どこか水っぽかった。

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