38 淑女と紳士を捨てる時
トールからハンカチを受け取ると、自らの目元に当てた。
「情けないわね……まさかこんなことで泣くことになるなんて」
涙の湿り気は目元だけではなく、頬の下まで伝っていた。
「ただの気持ちよくなりたいだけから始まった恋よ? こんなのが破れたから泣くとか、みっともなすぎるわ」
「始まりはどうあれ、君は一年間以上もの間恋し続けてきたんだ。それこそ悪い所まで愛おしく思えるほどに、君は彼女を好きになり続けてきた」
私はテレーシアのことを好きになり続けてきた。
想っている内に、テレーシアの可愛い所が次から次へと、泉のように湧くほどに好きになり続けたのだ。
「そして僕とは違い、君は最後まで諦めずに恋を叶えようとしてきたんだ。それがどうしようもない形で破れてしまったなら、悲しくて、辛くて、泣けて当たり前じゃないか」
トールの言う通りだ。
今私の感情は悲しくて、辛くて、文字通り泣いている。先生がいなくなった時ですら、泣きそうにはなったが、仕方のない人だと気持ちを切り替えた。
それがすんなり切り替わらない。
「そのくらいテレーシアのことが、好きだったっていう証だよ」
「そうね……そうかもしれない」
みっともなくてもいい。まだ認められないのだ。
「どうやら私、泣いてしまうほどテレーシアの事が好きだったらしいわ」
私の恋が終わってしまったことを認めるのに、しばらく時間がかかりそうだ。
「ごめんなさい。本当なら、貴方を慰めるのが一番の目的だったのに」
慰めの言葉を貰いながら一通り泣いた後、少し気持ちがスッキリした。
気持ちの切り替えはしばらく無理そうだが、とりあえずは笑って何かを話せるくらいまでは回復した。
「気にしないでくれ。普段おどけたように想いを語る君が、本気でテレーシアに愛されようとしていたのはよく知っている。君の方が辛いのはわかっていたことだよ」
「思わぬ女々しい面に、我ながら驚きが隠せないわ」
「君は女の子だ。驚くことではないだろう」
「あら、忘れたかしら舞踏会のこと。私の性別はクリスティーナ。女々しいのは性にあわないわ」
持ち直した私に、トールはクスリと笑う。
「素晴らしき失恋記念よ。今はそれを忘れるくらいに頂くわ」
空になった私のグラス。それを見落とすことなく注ぐトールは、不満でなければ心配するのでもなく、おかしそうにしている。
「飲まなければやっていられないとよく聞くけど、きっとこういう時のことを指すのよ」
「確かに今日は、明日の代償を気にせず飲みたい気分だ」
そう言ったトールが持つワインボトルの行き先は、自らのグラスではなかった。
グイッと、まさにあの日ギルベルトが表現したような豪快さを持って、そのままラッパ飲みした。
「ぱぁ!」
ヴァルトシュタイン家の長男らしかぬその姿。
紳士ではなく悪戯を誇る少年のように、トールはニカリとした。
「こうやって飲むのは気持ちがいいね」
中身があるか確認するかのように、ワインボトルを回している。
紳士の中の紳士たるトール。こんな姿を彼に憧れる者が見ようものなら、卒倒して倒れてしまうだろう。ヒルデ様に見られようものなら、勘当ものだ。
口の上では諦めていたというトールだが、やはり彼の恋は本物だった。紳士の姿を投げ捨ててまで、吹っ切る何かを欲しているのだ。
「ギルがやろうとするわけだ」
おどけた風に、不良少年はまたも一口呷る。
それは本当に気持ちよさそうな無作法であり、トールの新しい一面が見られて、微笑ましい気持ちにすらなってしまった。
そしてここまでして吹っ切ろうとする姿が羨ましい。
「ずるいわね、トール。一人だけ楽しそうに飲んで」
「すまないね、クリス。でもどうやらこれは、男だけの特権だ。君にさせてあげられないのが残念だよ」
「あら、それは差別というものよ」
私は席を立つと、トールの隣に立って、彼のワインボトルを取り上げた。
そして、一気にグイッと飲んだ。
「く、クリス……?」
私のあられもない姿を見て、トールは信じられないとばかりに唖然としている。
「私は元男なの。人の目を気にしなくていいのなら、このくらい余裕よ」
そしてそのまま一気に飲み干した。
これだけの品をこんな飲み方をして生産者に申し訳ない。だが私も今ばかりはこうしなければやっていけない。
「私の性別はクリスティーナ。可愛く愛しく麗しいラインフェルト家の淑女よ。だけど今晩だけは淑女を捨てるわ」
私の一面にトールはしばらく呆気に取られた後、両手を何度も叩く。それは拍手のような慎ましさではなく、バカ受けしたときの大きな手拍子だ。
「さあ、トール。友人同士、精一杯バカみたいにはしゃぎましょう」
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