37 恋は盲目、アバタもエクボ

「面白い物が手に入ったんだ」


 ワインボトルだった。


 ワインクーラでしっかり冷やされたそれを、トールは水滴を拭き取りながら面白げに見せてきた。


 ラベルも貼っていない、一見普通のワイン。


 私の前に用意されたワイングラスに注がれることで、トールが面白がる意図がわかった。


 グラスに注がれたその白ワイン。シュワシュワとしたガスが、底から絶え間なく湧き上がっていた。


「あら、スパークリングワインじゃない」


「その呼び方は初めて聞くけど……何だ、知っていたのかい?」


 面白がらそうとしたアテが外れ、肩をすくめて残念がっている。


「これは家が親しくしているワイン農家の試作品でね。まだ世に出回っていないはずなんだが……ラインフェルト家にも贈られていたのかい?」


「違うわ。この世界ではまだお目にかかっていない品よ」


「ということは……君の前世というやつで嗜み済みというわけか」


 成人した日に、自分へのご褒美のように初めて口にしたお酒だ。炭酸が入っているワイン全てをシャンパンだと誤解していた頃である。


「なら君にとって、これも大したものではないかな」


「そんなことはないわ。私が飲んだことあるのはただの安物。ヴァルトシュタイン家へ贈られるものなんだから、私が口にした物なんて泥水のような物よ」


 なにせあれは、五百円玉を出したらお釣りが返ってきた。


 今度は自分のグラスに注いだトール。


 これで準備が出来たとばかりに、彼は私の対面に腰を掛けた。


「それじゃ、乾杯しようか」


「あら、何にかしら?」


「そうだね……儚く散っていった僕らの恋にかな」


 差し出される彼のグラスへ、啄む軽い口づけのように自らのグラスを傾けた。


 場所はヴァルトシュタイン家の別荘。


 誰の視線も気にしなくていいバルコニーで、私たちは完敗を慰め合うためにいる。


 テーブルに並べられているのは、ワインと共にする摘めるような軽食ばかり。そんな驚くような物ではないが、このような物が用意されていたことには驚いた。


「全部、貴方が用意したの?」


 今日はお忍び。トールだけならともかく、私がここにいるのは誰にも悟られてはいけない。このような品を用意するには人手が必要。まさかこの屋敷に今、他に人がいるのだろうか?


「なに、君が心配するようなことはない。昼間に運び込んだ物をそのまま出しているだけさ。まぁ、自分で盛り付けくらいはしたけれどね」


 盛り付けくらいは、というがただ適当に置かれている訳ではない。食材と食材を組み合わせ立体感なども出したりと、少々手の混んでいる飾り方だ。それに合わせた飾り切りの様子が見受けられる。


「ヴァルトシュタインの長男である貴方がこれを?」


「こういうのは目で楽しむのも大事だからね」


「一人になりたい時によく足を運ぶだけあるわね。全部人任せで終わらせないその一面にお見逸れしたわ」


「普段やらないようなことをやると、変にこりたくなってくるだけさ」


 トールはよく、この別荘に足を運んでいる。


 私だけしか知らないトールの秘密。誰にも悟られず生きていくのはしんどいものである。だから昔から彼は、周りから離れ一人になる時間を好んでいた。


 別荘通いは中等部から始めたようだ。一人バルコニーでワインを傾けながら、物思いに耽る時間が好きなようだ。


 この国では飲酒制限の法律はある。ただしワインは例外というとんでもないものだ。


 ワインは貴族の嗜み。子供の内からワインに慣れる、という目的なのか。形ばかりに拘った、貴族社会らしい一面とも言える。


 だからといって常飲している家庭はそうそうないだろう。子供がアルコール狂いなど目も当てられない。どの家でも子供がワインを口にするのは親の前だけ。形に拘るからこそ、その辺りは上手く教育されていく。


 ヴァルトシュタイン家では、その辺りどんな教育をしているのかはわからない。ただこうした場所で一人嗜むのを許すくらいには、トールは信用されているのだろう。


「しかし、あまりにも呆気なかったね」


 主語を使わず早速今日の主題に入るトール。


「テレーシアがちょろいのはわかるとしても……ギルベルトがあそこまで手が早いとはね。想定外よ」


「でも、ギルの気持ちもわかるよ。淑女の方々に嫌われ続けた、散々な女性経歴だったんだ。それが初めて好意を向けられて、あそこまで親身に尽くされていた。ギルの気持ちが傾いてもおかしくはない」


「しかも相手はテレーシア。性格以外非の打ち所がない才女だものね」


「その唯一の非が姿をみせないんだ。本当に君の言ったとおりになってしまったね」


 それなのだ。ここまでスムーズに全部持っていかれるとは思わなかった。


「ごめんなさい、トール」


「ごめんって……一体何がだい?」


 謝れる覚えはないとばかりにトールは戸惑う。


 今回の私たちの失恋。私の恋が終わったダメージは相当であったが、正直、いつかはこうなるかもしれないとは覚悟していた。


 しばらく新たな恋を探すことができないくらいのダメージは引きずっても、日常生活には引きずることなくケロっとできる。


「あれだけ焚き付けて置いて、こんな結果になってしまったことよ」


 ただ、トールは違う。彼の初めての恋が、やる気になった所であっさり終わってしまった。それも希望を与えるだけ与えておいて、あっさりとその先にある物が取り上げられたのだ。


 辛いだろう。


 私はエリーがいる。親友相手にできないような甘え方をして慰めて貰える。


 ただ、彼には私しかいない。私にしか相談できないし、親友相応の慰めしか期待できない。


「私は貴方の幸せを願って、あの相談された日、貴方を勇気づけた。貴方はそれを受け取って、諦めないで前を向いてみると言ってくれた。……ただ、終わってみればこんなもの。結局私は無責任に焚きつけるだけ焚き付けて、貴方をガッカリさせてしまったわ」


 私は自分の恋がくじけたダメージよりも、トールを悲しませてしまったことの方がよっぽど辛いのだ。


 どう償えばいいのかがわからない。ただただ謝ることしかできないのがもっと辛い。


「そんな顔をしないでくれ、クリス」


「でも、私は……」


「これは僕に偶然が訪れなかっただけ。それだけのこと。仕方ないよ」


 辛い私の胸の内と違って、どこか満足げなトール。


「終わってみればさ、夢が叶わなかった苦しみじゃなくて、まぁこんなものだよな、って思っている自分がいたんだ。きっと心の奥では、最初から諦めていたんだ。そんな僕が、誰にも負けるもんかと好意を差し出していたテレーシアに勝てる訳がない」


「トール……」


「だからこれでいいんだ。僕には君がいる。きっと僕の身に起きた奇跡のような偶然は、君と出会ったことでその全てを使い果たしたんだ」


 その顔に浮かんでいるのは、諦めや妥協ではない。


「僕は将来、ヴァルトシュタインの家を背負っていかねばならない。誰にもこの心の内を打ち明けられず、自分を押し殺したままあんな大きな物を背負うんだ。もしかしたらその重さに押し潰されるかも……いいや、まさに押し潰されそうになっていたんだ。

 ――それを救ってくれたのが、クリス、君だよ」


 誇らしげな少年が、私の顔を覗いていた。


「僕の本質を見抜いて、君はその手を差し出してくれた。手に入らないと思っていた物を、君は与えてくれたんだ」


 友情。


 友達になりましょうと、私はトールを求めた。彼はそれを受け取って、今日に至るまで誰よりも大事にしてきてくれた。


 与えてくれたと言うのなら、私もまた与えられている。


「今だから思う。これよりも大きな物を得ようだなんて、今の僕には重すぎる」


 迷いもなくそう言い切った。


 愛情よりも友情こそが今の自分は大事であり、それ以上は重たすぎると。


「だから僕は、これでいいんだ。それよりも君の方が、気持ちの整理が大変なんじゃないか。それとももう次の目星はつけているのかな?」


 それは軽口である。場を和ませるための、これ以上私に気を使わせないようにするための。


 もう自分のことはいいと、トールは暗に言っているのだ。


「いいえ、しばらく新しい恋はできそうにないわ」


 なら私はそれを素直に受け取ろう。彼の気遣いを。トールの思いを。


「そんなにテレーシアが好きだったのかい? ほら、言ってはなんだが、初めは身体目的だったろう」


「そう、私が欲しかったのはあの娘の身体。テレーシアで気持ちよくなりたいだけから始まった、無謀な挑戦よ」


「はは、酷い挑戦だ。ならそこまで落ち込むものではなかったかな」


「そうでもないわ。一年以上も追いかけてきた恋だもの。私なりに落ち込みは酷いものよ」


 なぜこの恋は、よりにもよってテレーシアだったのかを思い出す。


 初めは乗り気ではなかった新しい恋。いついなくなるかもわからないエリーが、私を置いていなくなる未来を見かねて、その背中をずいずいと押してきた。


 自分で言うのもなんだが、中等部での私の人気は高いものだった。横暴な権力を振りかざす男を相手取り、手袋を投げ、決闘に引きずり込んだ負け無しの日々。見返りを求めず女の子を助けてきた私は、エリーのような女の子たちにとって憧れの的であった。


 私は私の周囲の評価を、正しい形で理解している。上手くやれば、一人や二人、また新しい女の子を毒牙にかけるなど、造作もなかっただろう。


 ただ、罪悪感はある。エリーを好きになれば好きになるほど、本来逸れることのない間違った道に引っ張り込んでしまったことに、罪悪感が募ってきたのだ。


 罪悪感に絶えきれずエリーにこの思いを全て伝えると、彼女はそれを受け止め、自分はこの道に来れて良かったと笑ってくれた。その内元の道に戻るつもりですから、と茶目っ気ある愛情を見せてくれた。


 エリーは今の関係を割り切るくらいの強さを持っていた。ただ次に引きずり込んでしまうような娘は、果たしてどうだろうか? 私と関係を持つということは、ある意味家族への裏切りだ。それに罪悪感を持ち、病んでしまうようなことになったらどうなるか。


 私は俗物である。エリーのような相手が絶えるのは我慢はきかない。絶対に欲しくなる。


 だから私はテレーシアを選んだ。


 負けん気が強く、いつも私を貶め辱めようと苦心するテレーシアを。


 彼女の嫌がらせをいつも笑って受け入れたり、流したりしているが、私も一人の人間である。嫌悪感も抱くし溜まってくるものもある。


「初めて私がテレーシアを選んだ時は、この娘になら罪悪感を抱かない、って思ったのよ」


「罪悪感って、何のだい?」


「悪い道に引きずり込むことについてよ。私の恋は女の子の道を歪めてしまうもの。普段あれだけのことをされてきたんだもの。テレーシア相手にならバチが当たらないかなってね」


「そんなことを思っていたのかい?」


「ええ、実はそんなことを思っていたわ」


 クク、と堪えきれず笑うトールに、私もまた白状するように笑った。


「テレーシアの嫌がらせの数々に、私だって鬱憤くらいは溜まっていくわ」


「あれを鬱憤が溜まるで流せるのは君くらいなものだ。普通は泣いて引きこもるレベルだ」


「でしょう? だからいっそ、テレーシアを手に入れてみようと気持ちを切り替えたの。あの娘の顔と身体は世界一。それをお腹一杯食べられるのなら、どれだけ素晴らしいことだろうと思ってね」


「世界を探しても、そんなことを考える女は君くらいだ」


 確かにそうである。女の子がテレーシアに恋をしてしまったとしても、彼女を知るからこそ手に入れようだなんて思わない。遠くから見守り夢見るのが精々だ。


「そうやって行動を初めてみたらね、彼女の嫌がらせが気にならなくなったのよ。これはテレーシアなりのスキンシップ。それを受け入れるのに苦じゃなくなった。むしろもっともっとと求めてしまっていたくらいよ」


 冷たいワインで喉を潤す。シュワシュワとした刺激が気持ちいい。


「そうすると後は恋をするまで一直線ね。彼女のことを見続けている内に、あの酷い性格が可愛らしく見えるようになった。愛おしく思えるようになった。


 今日こそはと現れて放つ高笑いが好きになった。


 忌々しげに見てくるあの瞳が好きになった。


 貶め辱めんと悪態をつくその唇が好きになった。


 下に見て嘲笑ってくるあの顔が好きになった。


 何度やっても懲りない負けん気が好きになった。


 必死にあら捜しをしてくるその姿が好きになった。


 彼女の悪いところの全てが好きになってしまったのよ」


 恋は盲目、アバタもエクボとはよく言ったもの。私ほど盲目にテレーシアの悪い所を愛せる人間はいないだろう。


「この一年間、あの娘を好きになっていく内にテレーシアに好かれたい、愛されたいって。誰にも、盗られたくないって……ずっと、ずっと……私は――」


「クリス」


 不意にトールは私を呼んだ。


 差し出されていたのはハンカチだ。


 どうしたのかというのだろう。摘みながら飲んでいる内に、口元でも汚してしまっていただろうか。


 そして私はようやく気づいたのだ。


 知らぬ内に、泣いてしまっていたということに。

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