34 君は特別だ

 私を信用して全てを語られた、英雄たちの秘密の物語。


 その信用は平然と裏切られ、トールへと彼らの秘密がもたらされてしまった。


「まさか……まさか、ね」


 英雄たちの真実。


 また一人その真実を知った者は、信じられないとばかりに空を見上げる。


「君の身の上に起きた奇跡の前では、全てが起こりうる偶然だと言っていたね」


「ええ」


「でも……いくらなんでもさ。こんな偶然、普通起こるかい?」


 次にその顔を見せた時には、年相応の少年が困ったように笑っていた。


「私も聞いた時は驚いたわ。まさかそっちか、ってね」


「そう、まさにそれだ。まさかそっちか、だ」


 喜ぶのではなく、笑えて仕方ないといったその様は、子供がはしゃいでいるようだ。


「そうか。まさかあの英雄がね」


 まさか、まさかと先程から同じ言葉を繰り返している。


「これは確かに魔王以上の機密だ。これは扱い方を間違えれば大変なことになる」


「私の淑女の矜持がかかっているのよ。大切に封印して頂戴」


「わかっている。でも素知らぬ顔でこれからギルと接するのが大変だ」


 外に出してなるものかとばかりに、口元とお腹に手を当てトールは笑っている。


「いつかギルの口から直接教えて貰えるまで、この秘密は大切に封印するよ」


 それは軽口では決してない。


 これは一つの信用問題。私にはポロっと漏らして仕方なくだったが、本来は信用できる者にだけ明かす秘密である。


 トールは直接、彼の口からその秘密を聞きたがっている。これから彼の信用を積み上げていこうという、一つの宣言だった。


「ありがとう、クリス」


 無邪気な少年がいつもの紳士に戻っていた。


「この話を教えてくれて。これからも諦めず、前に進む勇気が出たよ」


 私がどのような思いでこの話を語ったのか。トールはそれを正しく受け取ってくれたようだ。


 この顔が見たかった。真っ直ぐと初恋を実らせようと目指す、勇気づけられたその顔を。


 自然と笑みが溢れる。


 後は無言だった。雑談に嗜むこともせず、散歩のように庭園を歩いているだけ。


 その無言に息苦しさなどはない。心地の良い二人の時間だ。城内から漏れ出すオーケストラもまた、その役に買ってくれていた。


 城内では騒々しいくらいに聞こえるこの音楽も、今や聞き入るくらいに心地良い。


「痛っ……!」


 そんな二人の時間を破る音が聞こえた。


 緑の通路の突き当り。その曲がり角の向こうには、どうやら先客がいるようだ。


「大丈夫か?」


「え、ええ、このくらい……」


「悪い。痛かったか?」


「このくらい平気です。初めてですもの、仕方ありませんわ」


 何やら不穏な会話。


 まさかこんなところで情事にでも耽っているのだろうか。


 私とトールは淑女と紳士である。外、それも王宮の敷地内で情事に耽けるなどけしからんことではあるが、それを覗くような真似はしない。


 ここは見なかったことにして回れ右をすることこそが、正しい選択であろう。


 トールと顔を見合わせると、恐る恐る忍び足で、その曲がり角を覗いたのであった。


「経験さえあれば、こんなに苦労させなかったんだが」


「いいのですよ。誰でも初めてはありますわ。そのためにこうして練習しているのではないですか」


 何故ならこの声は、テレーシアとギルベルトのものだったからだ。


 曲がり角から顔を出しすぎないようその先を覗くと、案の定二人はいた。


 ここまでの迷宮のような通路とは違い、そこはちょっとした緑の広間だ。二人はそこで両手を取り合い、私たちに見られているとも知らずその行為の続きを始めた。


「ほら、ゆっくりでいいです。今は音楽を気にせず、ゆっくりとわたくしの動きにあわせてください」


「いや、ほんと。社交界のダンスってのは、こんな難しいものだとは思わなかった」


 ダンスの練習であった。


 雲隠れしてどこに行ったと思ったら、テレーシアがギルベルトにダンスを指南していたようだ。


「これからギルベルトさんは、沢山の社交の場にお呼ばれすることになります。ダンスの一つくらい早く形にしておかないと、後々大変ですわよ」


「お呼ばれを全部断る、って方針じゃダメか?」


「ダメです。貴方は魔導学院の主席。こうした国の招待からは断る権利などありません。潔く諦めて、淑女をエスコートする術を身に着けてください。そのためならわたくしが、いくらでもお付き合いしますから」


 社交の場の紳士の嗜み。そのしつけ役こそ自分の役目とばかりだ。


 ぎこちないギルベルトの動きを、ゆっくりと導くテレーシア。彼を見上げるその横顔は、下手なダンスの相手をされておきながらもうっとりとしている。


「痛っ……」


 そんな女の顔が苦痛に歪んだ。


「悪い、またやっちまった」


 テレーシアの足が踏まれたのだ。


「さっきから何度もやっちまって……上手くいかないもんだな」


「こういうのは慣れですわ、慣れ。根を詰めすぎるのもよくありませんし、少し、休憩しましょうか」


 テレーシアはそう提案しながら、その手を近くのベンチに向けた。


 ギルベルトが先に座るのを待つと、すぐにその隣へと腰を下ろした。距離がとても近い、恋人のように寄り添う距離だ。


「喉が乾いてしまいましたね」


「こっそりワインの一本くらい拝借してくればよかったな」


「それだけあっても意味がありませんわ。グラスはどうするのですか」


「そんなの、そのままグイっといけるだろ」


「何言っているのですか。そんなみっともない真似できませんわ」


「お嬢様はそういう時は不便だな。いや、そもそも男が口を付けた物だ。回し飲みなんて嫌に決まってるか」


「べ、別にそこを嫌だと言っている訳では……ないですわ」


 はははと笑うギルベルトに、恥ずかしそうにテレーシアは顔を背ける。


「ありがとな、テレーシア」


「ん? 一体なんのありがとうなのですか?」


「色々だよ」


 カラッとした笑みがテレーシアに向けられる。


「ほら、前に言っただろ? 貴族の女の子には今まで嫌われてきたって。今回学院に入るにおいて、女の子の相手だけが憂鬱だった。また事あるごとにボロクソに言われるんだろうなって、胃をキリキリさせていたくらいだ。

 でも、いざ入学してみたらその逆だ。令嬢の中の令嬢、公爵令嬢のテレーシアはこんなにも良くしてくれている」


「べ、別にわたくしだけが特別ではありませんわ。それこそミス・ラインフェルトだって、貴方を受け入れてくれているではありませんか」


 テレーシアとは思えないくらいの謙虚さ。私を持ち上げているとか、実にありえない事態だ。


 真っ直ぐすぎるギルベルトの感謝に、照れているのだろう。それはもう恥じらいを覚えるほどに。


「確かにラインフェルトは、最初から受け入れてくれたな。地位とか肩書きとか関係ない。自分の力でここに来たんだから胸を張れってさ」


 自らの失策に気づき、テレーシアはムッとした。


「そういう意味では、一番気軽に相手をしてくれてるのはラインフェルトかな。気軽すぎるんで、漏らしちゃいけない秘密をポロっと漏らしちまったくらいだ」


 自分の知らないギルベルトの秘密。それが私にもたらされていることが悔しくて悔しくて仕方ないだろう。彼女の表情筋は今、かつてないほど辛い戦いを繰り広げているに違いない。


「ただ、ラインフェルトは気軽なだけだ。一番良くしてくれているのはテレーシアだよ」


 その戦いに、終止符はすぐついた。


 え、という声を出しそうなテレーシアは、呆けたようにギルベルトを見上げている。


「不慣れな環境に戸惑う俺を、嫌な顔一つせず面倒を見てくれている。その優しさに助けられている俺にとって、君が一番特別な女の子だよ」


 なんという、真っ直ぐなのに甘いセリフか。


 女の子に嫌われてきたと思い込んできたギルベルトにとって、テレーシアのような女の子は初めてだ。特別だと言うのもわかる。


 彼は真っ直ぐだ。ただその感謝を述べているだけにすぎない。ただ言葉の扱い方を間違えると、どういうことになるか彼はわかっていない。


「そ、それって……」


 期待とトキメキに満ちた女の顔。


 ギルベルトの言葉の扱い方の欠陥は、このような被害者を生み出してしまう。期待をもたせるだけ持たせて、地獄に叩き落す悪魔の所業である。


「テレーシア」


 だが、間違えていたのは私の方であった。


 彼は何一つ、言葉の扱い方を間違っていなかったのだ。


「君はどうなんだ?」


 彼の右手が、テレーシアの頬に触れている。


「君にとって俺は、特別なのか?」


 待て、待て、待て、待て。


「わたくしにとって……」


 目の前で一体、何が起きている?


「ギルベルトさんは……」


 いくらなんでもあまりにも呆気なすぎる。


「特別、ですわ」


 テレーシアの頬に添えられた手が、ギルベルトの顔へと引き寄せられる。


 それが何を意味するのかわからないテレーシアではない。その目を閉じ、その先にある行為を静か待つ。


 かくして、私たちは目撃することになる。


 暗闇の中にある私たちの恋。


 歩いていればいつかは光が差し込むだろうと信じ、二人で踏み出したこの足元。


 それが呆気なく崩れ去っていく、その瞬間を。

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