32 その性別は

「すまない、クリス」


 エスコートされるがままに踏む軽やかなステップ。


 奏でられるオーケストラと、綺羅びやかな灯りと共に、この身に受けているのは会場中の視線である。


 繋がれたこの手の先にいるのは、我が親友。トールヴァルト・フォン・ヴァルトシュタイン。貴族社会を生きる誰もが、彼の一挙手一投足に関心を寄せている。


 家柄や才能だけではない。その容貌だけでトールは女性を惹きつけるのだ。


 トールにその手を取ってほしいと願う少女は、この会場には山のようにいる。その相手として選ばれ私にも、自然と関心が集まってしまっている。


「母さんの我儘に付き合わせてしまって」


 そんな会場中の関心を一手に引き受けていると、ふと、トールはそんな風に言葉を漏らした。


「いいのよ。本来理があるのは、ヒルデ様の方だもの」


 エスコートに従いながら、トールにそう返した。


「私たちは互いを理解し、信用し、そして幸せを願っている。それこそこれほど相手を思い合っているのなら、愛へと変化しないのがおかしいほどにね」


「でも、僕らは親友だ。そこに恋や愛などは芽生えない」


「そう、私たちにあるのは不変の友情だけ。社会に反する価値観を持っているからこそ、互いの肉体に欲情しない。後ろめたさも背徳感もない、純粋な友情がここにはあるわ」


 ふいに、腰に回された手に力が入った。


 トールの胸に飛び込むような形となり、まさに吐息がかかる距離である。


 どうやら私たちと歳の変わらないペアが、ぶつかりそうになってきていたらしい。それを引き寄せて避けたようだ。


「本質を打ち明けずして、この友情を理解しろだなんていうのは無理な話。私たちの方が、我儘を言っているようなものなのよ」


「だから周りには勝手に言わせておけばいい……と答えを出したけれど、母さんは言うだけで済まなくなってきているから問題だ。今日はいつにも増して強引だった」


「どうしたものかしら」


「どうしたものかな」


 互いの瞳を見つめ合いながら、難しい答えを検討する。が、それも長くは持たず、どちらともなくくすっと笑う。


「そんな簡単に答えが出るのなら、僕らはこんなに困っていないか」


「そうね。ずっと目を逸してきたこの問題。いい加減、向き合う時が来たのかもしれないわね」


 いっそトールが独身を貫ければどれだけ楽な問題だったか。


 そういう意味では案外、今の状況は悪くはないのだ。ヒルデ様が私を迎えようと躍起になってくれている間は、トールに婚約者を充てがわれることはない。トールの負担が一番少ない状態なのだ。


「でもまさか、君とこうして踊ることになるとは思わなかったよ」


「私もよ。でもあの場はあれ以外の形で収めるのは難しいわ。これが終わったら、あの二人のように逃げちゃいましょう」


「そうしよう。父さんたちが来たのなら、僕はもうお役目御免だ」


 ヒルデ様以外にも、ヴァルトシュタイン公が既に会場へと参上していた。少し離れた場所で、グランヴィスト公と歓談しながらこちらを見守っていたようだ。


「しかし母さんへの切り返しは見事だった。僕ですらどこまでが本心なのか見抜けなかったよ」


「これだけの舞台、までよ。踊らずに済むならそれに越したことはないわ」


「母さんいわく、ここは乙女ならば誰しも憧れを抱く舞台のようだけど?」


「残念ながら、私に乙女であった時期なんてないわ。ええ、ハッキリと言いましょうか。こんな舞台、私にとっては面倒な催しに過ぎないわ」


 堪えきれず吹き出すトール。しかしそれは下品な笑いではなく、この場に相応しい上品さを備えていた。


「やはり君はどこまでも君らしい。

 ――クリス、改めて君に聞きたいことがある」


「何かしら?」


「君の本質だ」


 トールの微笑みは崩れない。この会場で淑女をエスコートする紳士に相応しいものだ。


「最近まで僕は、君を同じ同性しか愛せない女の子だと思ってきた。けれどこの前の君の告白が、それを違うものだと示した。君が女性に向ける愛情は、男が女へと向けるそれと同じものなんだろう?」


「ええ。私には男として生きた記憶がある。この欲求は、男が女へ抱く情欲と同じものよ」


「なら君の心の本質……その性別は男なのかい?」


 心の性別。そんなことは久しく考えていなかった。


 なぜならその答えはもう出したのだ。


「いいえ、違うわ。私の心はもう、男のそれではないわ」


「なら君の心は女へと変わったのかい?」


「いいえ、それもまた違うわ」


 二つを否定する私の答え。


 トールはこれ以上の答えを急いで求めることなく、ただ私の答えを待っている。


「クリスティーナとして目覚めてから私は、貴族の令嬢、そして淑女としての在り方を受け入れたわ。けれど男としての矜持、精神を忘れたことはなかった。どれだけ家族愛に満ち足りようとも、男として女を欲していたの。そこに愛などなくてもいい、性欲を満たしたいだけの浅はかな男だったわ」


 トールに接触する前の私。まだ私の心が男で在り続けていた時期。


 男としてトールと接触していたら、この友情はまた違った形を見せたかもしれない。


「そんな浅はかなわたしが死んだのは、先生に出会ってからよ。あの人によって私は、この身体が女であることを教え込まれた。女の喜びを知ってしまった」


 けれど過ぎ去ったもしもに意味はない。何よりこの友情こそが尊いと感じている。


 男しての私は、あそこで終わってよかったのだ。


「男としての矜持は、汚しに涜しに穢された。

 男としての精神は、劣しに貶しに堕とされた。

 心の性別などくだらないと思うほどに。クリスティーナはクリスティーナで良いじゃないかと、私は悟ったのよ」


 男としてのプライドから解き放たれ、


 女としてのプライドなど端からなく、


「振る舞いは可愛く愛しく麗しく。

 拳を振るえば雄々しく気高く勇猛に。

 そして閨では淫らな音を出しながら、愛と快楽に蕩けて溺れるの」


 私が求める私らしさ、新たなプライドが形成されたのだ。


「これが私。心の性別に男か女かなんて、今更関係ないのよ。それでもハッキリさせろと言うのなら、こう答えてあげるわ」


 それは期せずして、その曲の終幕であった。


 胸を張って、


 誇るように、


 最後までエスコートしてくれた親友に、その疑問の答えを差し出した。


「私の性別はクリスティーナよ」

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