31 母の思い
唐突なヒルデ様の爆弾発言に会場内がざわついた。
トールが私を連れ回していた時点では、その関係を訝しるだけで終わっていたかもしれない。ただこうしてヒルデ様の口から出ることで、受ける衝撃は相当なものとなった。
一方、トールの口から出るのは、またかとばかりに漏れ出るため息。
「ヒルデ様に買って頂けるのは光栄の極みです。ですが私たちの間にあるのは深い友情だけ。その申し出はお引き受けできません」
ヒルデ様に向かって深々と頭を下げていると、悲鳴のような声々が耳を刺す。
声の主はヒルデ様ではない。アデリナ様でもない。私たちの成り行きに耳を傾けている者たちである。公爵夫人のポジションをあっさり蹴った私に、信じられないとばかりに驚嘆したのだ。
しかし私としてはいつものこと。この申し出は初めてではない。二度、三度どころか、既に両手足の指を使っても足りないくらいだ。それこそ顔を合わせる度になるほどで挨拶の粋に達している。
「あらあら、これは本物ね」
「本物だから参っているのよ。ここまで私に言わせておいて、一度も首を縦に振ってくれないのよ。健全な仲というものを恨んだのは初めてよ」
端から私が承諾するとは思っていなかっただろうに、ヒルデ様は疲れたような嘆息を漏らす。アデリナ様はアデリナ様で、そんな親友の顔をおかしそうにしていた。
「もういっそ、クリフォードに話を持ちかけた方が早いのではない?」
クリフォードとは、私のお父様である。クリフォード・フォン・ラインフェルト子爵その人だ。
「そんな真似をしようものならトールが黙っていないわ。クリス自身が納得してくれないと意味がないの」
不満げなヒルデ様だが、それでも私の生き方を捻じ曲げようとは決してしない。この人なりの信念を持って、私を迎え入れたがっているのだ。
「わかっているならいい加減諦めてほしいね、母さん。僕らの関係に恋や愛が生まれる余地はない。それほどまでに純粋な友情なんだ。僕ら二人の関係については、もう放っておいてくれ」
毎度のヒルデ様の対応にトールはうんざりしている。
「放っておける訳がないでしょう。貴方はヴァルトシュタイン家の次期当主よ。その隣に寄り添う相手は、貴方一人の問題じゃないわ」
「家の事情にクリスを巻き込まないでくれと言ってるんだ。僕の相手なら、その辺から探してくればいい」
「その辺って……また誰でもいいみたいな言い方をして」
「大事なのは僕の意思ではなく、ヴァルトシュタイン家の方針だろ。ヴァルトシュタイン公爵とその公爵夫人が我が家に相応しいと選んだ女性なら、僕は黙ってそれを受け入れる。ヴァルトシュタインの名を背負うのだから、そのくらいの覚悟はあるさ」
ただ冷静に、無機質に、他人事のように、トールはそう言い放った。
「クリスに出会って変わったと思ったのに……久しぶりに聞いたわね、そのセリフ」
呆れたような、困ったような、答えの見つからない問題に直面したかのような声色だ。
「貴方のためを思って、クリスを迎えようとしているのよ?」
「僕らは今のままがいいんだ。僕のためを思ってくれているのなら、これ以上口を挟まないでほしい」
息子を慮っているヒルデ様の想い。
ヴァルトシュタイン家始まって以来、最高の才能をトールは与えられている。ヴァルトシュタイン家の益々の発展が約束されているほどに。
後は変な女に捕まらなければという心配だが、トールには無用だ。ヒルデ様たちが選んだ相手なら誰でもいいと言っているのだ。
両親であるヒルデ様たちは、縁談ではなく恋愛婚である。なおさらその子であるトールを愛おしくて当たり前であり、将来の伴侶についてその意思を尊重したいのだ。
トールもそんな胸中がわからないほど愚鈍ではない。その本質を両親に打ち明けることができないからこそ、私に出会う前までは苦しんできた。
結果として、将来の相手は誰でも良いとしか言えないのだ。
「まったく、貴方のそういう所には困ったものね」
「女性関係にだらしないよりは良いと思うけどね」
「また減らず口を。その調子だと、まだ一度も踊ってきていないわね」
ヒルデ様は振り返りようにして、大広間を見渡した。
「見なさい。今日は舞踏会の中でも年に一度の大舞台。貴方くらいの子たちは皆、既にその舞台へ上がっているわ。ヴァルトシュタイン家を継ぐ紳士が、淑女の一人もエスコートをせずに終わらせるつもり?」
「求められれば上がるつもりだったけど、皆踊りたい相手、踊らせたい相手がいたんだろうね。挨拶周りでは一度も求められなかったんだ。それを横槍のように僕から求めるのは、野暮ってものだろう?」
「出来た息子で幸せ者だわ」
ヒルデ様は痛む頭に片手を当てながら息子を皮肉る。私を使って完璧にあしらってきたのをわかっているのだ。
「どう思うアデリナ? 隣に女の子を置いておいて、ダンスの一つ誘わない我が息子を」
「私も他所の家庭のことを言える立場じゃないのよ。ギルベルトさんと一緒にいたはずのテレーシアが見当たらないの」
頬を片手に当てて、困ったとばかりのアデリナ様。
「テレーシアと一緒にギルもいるのですか?」
目を丸くするトール。
爵位を与えられていなくても、ギルベルトほどの存在が招待されるのは当然の成り行きか。意外なことがあるとすれば、大人しく参加したことの方だろう。
「ほら、彼に興味がない者はいないでしょう? でも彼はこのような場とは無縁に育ってきた。その差に問題が出ないよう、テレーシアが傍に付いてたのよ」
ギルベルトの前で良い所を見せるチャンスだ。ここぞとばかりにテレーシアは張り切ったに違いない。
「でも挨拶を終えてそのまま二人で踊っているかと思ったのに、どこにも姿がないの」
「それならテレーシアはきっと、ギルを逃したのですよ」
「逃した?」
「ギルが踊る術を身に着けているとは思えませんから」
悪戯っぽく言い切るトールに、私はクスっとしながら大広間へ目をやった。
「確かにそうね。アーレンスさんがテレーシアさんをエスコートしている姿は、とても想像できないわ」
「だろう? そしてそれがわからないテレーシアじゃない」
「アーレンスさんに恥をかかせないよう、機を見て逃してあげたのね」
お互い、堰を切ったように笑い合う。
「本当に……勿体ないわね」
そんな私たちを一通り眺めた後、アデリナ様はふと言葉を漏らした。
「そうですね。もしテレーシアさんがあの中にいれば、間違いなく今日の主役に――」
「テレーシアのことじゃないわ。貴方たちのことよ」
「私たちの……?」
「ええ。これだけお似合いで、通じ合っている二人だもの。貴方たちがあの輪の中に入れば、きっと素敵な絵になるでしょうに」
思い馳せるようにヒルデ様は、皆が踊る大広間の中心へとその目を向けた。
「そうよ。この舞踏会は、乙女ならば誰しも憧れを抱く場よ。こういう時こそ、貴方からエスコートしないでどうするというのよ」
ヒルデ様も好機とばかりに乗っかり、トールを咎める。
「だから僕とクリスは――」
「どう、クリス。乙女として、一度も踊らずに終わって本当にいいのかしら?」
トールの方から動かすのを諦めたのか、今度はその矛先が私に向いた。
乙女として、と強調されるも乙女であった時など一欠片もない。可愛いエリーやテレーシアの手ならいくらでも取りたいが、男にこの手を取って欲しいなどと思ったことはない。
しかしヒルデ様の目を見据えながら、そんな思いを素直に吐くことなどできない。
トールと一度顔を見合わせると、しつこい母親にうんざりしている。
これはもうヒルデ様の顔を立てるのが一番早いかもしもしれない。観念した方がよさそうだ。
「確かにヒルデ様の仰る通りかも知れませんね。これだけトールの隣に置いてもらいながら、このまま終わるのは問題かもしれません。ラインフェルトの娘は踊っても貰えなかったと噂されれば、それこそお父様方に申し訳がたちませんもの」
満足そうににんまりとするヒルデ様を横に、私は親友へとこの手を差し出した。
「何よりこれだけの舞台よ。何もせず終わるのも勿体ないわ。
――トール、どうか私と踊ってくれないかしら?」
この目に映る表情は、母親の思い通りになることが面白くないモノでなければ、諦めたものでもない。
「もちろん、喜んで」
私の言葉ですっかり気持ちが切り替わった、夢見る乙女の夢よりも甘い微笑みだった。
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