第16話 千日紅
休日。神代に連れられて僕は入り組んだ道を右に左に曲がりながら進んで行く。
「【
途中、神代から質問を受ける。
「ううん。知らない」
「赤羽家は隣の
神代は憂うつな表情で小さなため息をつく。
「そういえば昨日聞き忘れたがあったんだけど、聞いてもいい?」
「なに? なんでも聞いて。私たちの間に隠し事はなしって約束だからね」
「悪玉の他に善玉っていうのがあるの? 騙り部が猿に対して言っていた気がするんだけど」
たしか三寸世界に取り込まれる直前のことだ。猿の精神が悪玉に支配されかけて凶暴化しかけていた時、善玉を意識するようにと叫んでいた。
悪玉が悪行を起こさせるものならば、善玉はその反対で善行をする時に肥大化するのだろうか。
「うん、あるよ。私たち邪行の力は悪玉を源としているけれど、心まですべて悪玉に支配されたら悪行を犯してしまう。でも、善玉が抑え込んでいるおかげで一線を越えないでいられるの。だから悪玉を意識するのは能力を使う時だけにしておいた方がいいよ」
たしかに能力を使っている時、気分が高揚して今ならなんでもできるという感覚になった。影の盾を使えば化物だけでなく人間も殺せる。誰にも見つかることのない凶器を使い、証拠を一つも残さずに殺すことができる。警察では絶対に解決できない完全犯罪を実現できる。
僕にはこの世で最も憎む相手が一人いる。それは祖父をはね飛ばした車の運転手だ。この先どんなことがあっても僕はあの人を許さない。
悪に手を染めたばかりの頃、この力で奴を殺そうと考えたこともある。
だが今はまったく考えていない。この力は街を守るために使うべきものだから。
もしかして、僕の善玉が悪玉を上手く抑え込んでくれているおかげなのかな。
しばらく歩くと古めかしい黒い門の前に立つ。表札には『赤羽』とあるからここが目的地らしい。
大きな門の脇に呼び鈴があったので鳴らそうとするが、神代に手を引かれてそのまま裏口に向かう。昼間に僕たちが手をつないでも影の力は出せないと言おうとしたが、のどに力が入らなかった。
「あっちは表の人向けの門だよ。噂では政治家とか大企業の経営者が来るみたい。私たち退治屋はこっちの裏口を使うの。これも覚えておいてね。真木野? 顔が赤いけど大丈夫?」
神代の問いかけになんと答えたのかはわからない。だが、昼間に女の子と手をつなぐことが恥ずかしいということはよくわかった。
神代は裏口の小さな戸を叩くと、すぐに裏口の戸は開いて誰かが出てくる。
「どちら様でしょうか」
小声で自信なさげに話す少女だった。
神代よりも背が低く髪も短い。丸顔で楕円形のフレームのメガネをかけているせいか、おとなしくて優しそうな印象を受ける。おそらく中学生くらいだろう。女の子の視線が僕たちに交互に送られている。
「邪行の神代朝日です。今はキサラギジャックという特号で、私はジャックを名乗っています。私と共犯者のキサラギの治療をお願いできますか?」
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
少女は、その容姿に合った小さな声で答えて僕たちを中に入れてくれた。そして先に立って僕らを導いてくれる。時折ついてきているか確認するため、小首を傾げながら振り向く姿はとてもかわいらしい。
連れてこられた先には立派な屋敷があった。屋根にはきれいな瓦が敷きつめられている。外から見える柱も歴史を感じさせるが、古臭さや弱々しさは一切感じられない。庭には大きな池があり、色鮮やかな鯉が何匹も泳いでいる。その周辺には松やもみじの木が植えられている。庶民の家とは格が違うと一目見ただけでわかる。
家に上がらせてもらい、小柄な少女が再び先導して廊下を歩く。廊下の両側にはいくつも戸が並び、そのうちの一つの部屋に通された。六畳ほどの広さの和室に座布団が二つ用意されていたので僕と神代は並んで座る。少女は両手を重ね合わせて丁寧にお辞儀してから出ていく。
そこでようやく気がついたことがある。その女の子は、赤色の手袋をはめている。冬の凍てつく寒さから守ってくれる手編みの手袋だ。
しかし今の季節は春である。さすがに四月になった今は暑くないだろうか。それとも極度の潔癖症か、手に大きな傷を負っているから見せたくないのか。それとも別の理由があるのか。
「さっきの女の子、どうして手袋なんてしてるんだろう」
いくら考えても答えがわからなかったので隣に座っている神代に聞いてみた。
「初めて見たら不思議に思うよね。でも大丈夫。千日紅の能力を見ればわかるよ」
どういう意味だろうと考えを巡らせていると、ふくよかな中年女性が入ってきた。
「すみません。表のお客様の施術に時間がかかってしまいました」
対面に中年女性が正座し、畳に両手をついて深々と頭を下げる。その人も先ほどの少女と同じように手袋をはめている。こちらは美術品を鑑定する人がはめるような白くて薄い手袋だ。
「邪行の神代朝日さん。お父様のことは辛いでしょうが、どうか気をしっかり保ってください」
それは定番のあいさつではあるが、そのせいで場の空気が重くなってしまった。
「でも、素敵な男性を見つけたんですね。仲良さそうに手までつないでいましたものね」
またすぐに空気が変わる。
この人、神代のからかい方を熟知しているようだった。
「そ、そんなことより早く彼の傷を治してください。パパッとお願いしますよ、パパッと」
顔を赤くさせる神代が早く用事を済ませようと急かす。
しかし、そんな魔法のように傷が治るわけがない。化物の名無しさんでさえ痛みを一瞬忘れさせることしかできなかったのだから。
「そうですね。治せるうちに治しましょう。それでは服を脱いで傷口を見せてください」
中年女性の表情が真剣なものに変わる。言い訳や反論は一切受け付けない。私の指示が絶対だと言わんばかりだ。それは神代も同じだった。
そのせいで僕は、女性の前で裸を見せるのは恥ずかしいとは言えない状況に追い込まれる。観念して上着を脱いで傷ついた右肩を見せる。
「ああ、これはひどいですね。退治屋の方なら深夜でも裏口から来てくださいね」
中年女性が化け猿にえぐられた右肩を診察する。その瞬間、忘れていた痛みや苦しみが襲う。
「大丈夫ですよ。パパッと終わらせますからね、パパッと」
その人は微笑を浮かべながら白く薄い手袋がはめられた右手を上げる。
先ほどの少女といい、この女性といい、この家の人の手には……なにかあるのだろうか。
だが、その答えはすぐにわかる。
そして千日紅――赤羽家の特殊能力のことも。
彼女は右手の手袋を外す。目立った傷や汚れもない普通の手。
だが手の甲を見た時、そこに不思議な紋様があることに気づく。
赤い花か、赤い実のようなものが描かれている。
「これは千日紅。赤羽の家に生まれた人間には、この紋様が手の甲に浮かび上がってくるの。不思議よね。でも、これのおかげでみんなを助けられる。それじゃあ刻印させてもらうわ」
中年女性は、しわのある顔でにっこり笑った。
それから僕の右肩に右手を当てる。最初はなにも感じなかった。だが次第に右肩がむずむずしてくる。痛みはない。むしろかゆい。爪を立てて思い切りかきたくなるくらいかゆくなってくる。そう思っていたところで手が離れた。
「お疲れ様でした。かゆかったでしょ? よく我慢できたわね。えらいえらい」
にこやかな笑みを浮かべながら幼い子どもをあやすように言われた。
それもまたむずがゆい。いったいなにをされたのかわからない。だが右肩を見て驚いた。
化け猿にえぐられたところがきれいに元通りになっている。ただ皮膚が再生しただけではない。素人目で見てもその下にある筋肉も骨もしっかり治っていると感じた。
恐る恐る手で直接触ってみるが、痛くもかゆくもない。なにが起こったのかまったくわからない。
これは本当に自分の肩なのかと疑う。夢か幻ではないのかと疑う。だが右肩にあるホクロまで元の位置にしっかりと再生していることに気づいた。やはりこれは本物の僕の肩だ。
「千日紅の花言葉は不朽、不死、不滅、永遠の命。そしてそれが赤羽家の治癒能力」
すぐ近くで治療するところを見ていた神代が教えてくれた。
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