第2話 黒い化物

 もしも神代の話が本当だとしたら……祖父が死んだのは魔という化物が原因だった?

 もしあの時、彼女の手を握っていたらどうなっていただろう。

「はぁ……」

 大きなため息を吐き出して地面に転がっている石を蹴る。

 こんなこと考えたって意味がない。

「真木野!」

 急に名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある女の子が走ってくる。

「逃げて!」

「え?」

「いいから早く! 逃げてっ! わっ! と! あっ! やばっ!」

 僕との距離が数メートルといったところで神代の足がもつれて体勢を崩す。

 走る勢いそのままに彼女が飛び込んできた。

 僕は一瞬だけ受け止めるが、結局は勢いに負けてアスファルトの地面に倒れ込んだ。

「いってぇ……」

「ご、ごめん! 大丈夫? ケガしてない? 本当にごめんね!」

「あ、うん。大丈夫。ところで、なにから逃げ……」

 その直後、耳を痛めるかと思うほどの衝撃音が轟く。



 驚いて振り返ると、廃業した居酒屋のシャッターが押しつぶされていた。

 シャッターの原形をまったく留めず、ぐちゃぐちゃにつぶれてしまっている。

「なんだ……これ……?」

 今の音は大型のトラックがぶつかったような衝撃だった。

 しかし、店のシャッターにぶつかったと思われるものがどこにもない。

「真木野……逃げて……」

 神代の震える声が聞こえてくる。手足もガクガクと震えている。

 彼女の視線の先には押しつぶされたシャッターがある。

 そこにはなにもない。なにもいない。

 しかし、なにもないことが逆に恐怖を感じる。

「神代……そこになにかいるの……?」

 もし僕には見えていないだけで、彼女には見えているなにかがいるとしたら……。

「わ、私のことは、いいから。だ、大丈夫だから。早く逃げて!」

 神代の声も手足もさっきから震えっぱなしだ。目には涙がたまっている。



 この街で事件事故が起きるのが嫌だった。

 この街の誰かが傷つくことが嫌だった。

 それでも僕はなにもできないと諦めていた。

 けれど今、手を合わせればなにかできるという人がいる。

 化物や能力の存在を信じる信じないはこの際どうでもいい。

 それより今は、僕の目の前にいる女の子が泣きそうになっていて危険にさらされていることが問題なのだ。

 祖父が愛したこの街で、不幸にあう人をこれ以上増やしたくない。

 そんな辛い現実は見たくない。

「どうすればいい?」

「え?」

「どうすればいいか教えてくれ!」

 視線を数秒合わせた後、神代はゆっくり深呼吸してから右手を差し出してきた。

「真木野和輝。あなたは……悪に手を染める覚悟はある?」

 セーラー服の袖からのぞく手首には今も真っ黒なあざがある。

 先ほどよりも濃く存在感を示しているように見えた。

 だが今はもう、手が震えていない。

「僕は……悪に手を染める」

 君を守ることができるなら、この街を守ることができるなら――。

 握った彼女の手は、とても小さくて傷だらけだった。それでも朝日を浴びたように温かった。



「悪手完了。よろしくね、私の共犯者」

 どういう意味か聞こうとした時、両手首に激痛が走った。

「痛ッ……」

 目を向けると、神代の手首と同じような黒いあざがついていた。

 背後に気配を感じてとっさに振り向く。そこには見たこともない生物が立っていた。

 姿形は人間に近いのに、全身真っ黒で顔も姿もまったく見えない。身長は二メートル以上あり、横幅もそれなりにある。とてもこの世の生き物とは思えない。【化物】としか言いようがない。

 そして今、化物は右腕らしき部位を振り上げてこちらに向かってきている。

「神代! 逃げよう!」

 だが彼女の足は、その場に貼りついたように止まったままだ。

 いくら手を引いても決して動こうとしない。

「ここで倒すしかない。あいつをこのままにしたら街にもっと被害がでる」

 神代の発言に耳を疑った。けれど彼女が本気で言っていることはすぐにわかった。

「真木野はこのまま手を離さないで。すぐに私が能力を……避けてっ!」

 すぐに振り向くと背後には真っ黒な化物が迫っていた。

 その巨体にふさわしい鈍器のような巨拳を振り下ろすところが見える。



 人が死ぬ瞬間には、目に見える景色がはっきり見えたり耳から聞こえる音がゆっくり聞こえたりするらしい。自動車事故にあって急死した祖父も、僕と同じような体験をしているかもしれない。

 祖父は事故で苦しんで死んだ。

 笑って死ぬことなんてできなかったはずだ。

 僕だってそうだ。こんなわけのわからない化物に殺されて笑えるわけがない。

 僕にはまだやることがあるから。

 このまま僕が死んだら誰が神代を守るのだ。誰が街を守るのだ。誰があいつを倒すのだ。

「このまま死ねるか!」

 気づけば決死の覚悟で叫んでいた。

 次の瞬間、目の前に真っ黒な物体が出現する。同時に、キイィンと高い金属音が響く。



 いつの間にか目の前には異様な物体が浮かんでいる。黒く大きな円盤のように見える。

 なぜか不思議と怖くない。むしろ懐かしさや親しみやすさという感情すら覚える。

「これは……盾?」

 突如出現した直径一メートルほどの盾が僕らを守ってくれたのか。

 金属音と鈍い音が連続して聞こえてくる。黒い盾の向こう側でなにかがぶつかっているのだ。

 その正体は考えるまでもない。人の形をしているのにこの世のものとは思えない黒くて大きな化物だ。奴が大きな拳で黒い盾を力の限り殴ってきているのだ。

「どうしよう。この盾を壊されたら……うわっ!」

 化物が先ほどよりも強く殴ってきたのか、宙に浮かぶ盾が僕らの方まで戻されてしまう。

「落ち着いて。その盾があなたの力なら、あなたの意思で動かせるはず。ゆっくりでいいからやってみて。大丈夫。真木野ならできるよ。でも、絶対に私の手を離さないで!」

 言われて気がついた。神代と手をつないからずっとそのままだ。

 化物から逃げようとした時も、化物に殺されそうになった時も、ずっと離さなかったのか。

 僕の手も神代の手も汗まみれだが、決して離れないように手をつなぎ直す。教室で神代が言っていたことを思い出したからだ。

 能力は、手をつないだ状態でなければ使えないという制約があることを。

「盾よ動けぇ!」 

 僕は大きな声で命令すると、盾は自ら意思があるかのようにすばやく動いた。

 化物は近づいてきた盾を力任せに叩いてくる。耳障りな音が聞こえ、盾も押し返されてきた。

 僕はすぐに頭の中で盾に前進するよう命じる。今度は声に出さなくても盾は動いた。

 どれだけ叩かれてもその場に留まるように念じると、黒い化物の攻撃にびくともしなくなった。

 それにしても、この化物はバカなのか? 盾を避けるように進めばこちらに来られるのに。

「日陰者と戦っている間は集中して。そうしないとこちらが死ぬことになる」

 ほんの少し気がゆるんだだけで盾を吹き飛ばされかけた。

 だが神代の言葉を聞いてすぐに盾を元の位置に戻す。

 


 危なかった。しかし、守ってばかりではこの化物を倒すことができない。

 どうする。どうすればいい。

 この黒い盾を思い切り前に押し出して化物を突き飛ばそうか。

 いやそれは難しい。今も全力で押し出そうとしているが、化物の力が強すぎて守るのが精一杯だ。

 それに、もし突き飛ばして地面に叩きつけたとしてもすぐ立ち上がってしまうだろう。

「あいつは私が倒す」

「なにか策があるの?」

「二つ約束してほしいことがあるの。これからなにが出てきても驚かないでほしい。それから、絶対にこの手を離さないでくれる?」

 僕はすぐにうなずいた。

 言葉を発している余裕がなく、神代を信じるしかなかったから。

 目の前の化物は先ほどから姿が変わっていない。

 それなのに、化物の力はどんどん増している気がした。

 このままでは盾を吹っ飛ばされて攻め込まれるかもしれない。



「【悪喰あくじき】!」

 街全体に響くほど大きな神代の声。

 しかし、なにも起きない。なにも現れない。

 化物を抑え込むために盾を静止させたまま、横目で様子を確認する。

 だがそこには神代の他になにかがいた。うっかりつないだ手を離しそうになるほどの恐怖を覚える。

 あわてて視線を戻して盾の操作に集中する。

 しかし、あれはいったい……なんだ……?

「大丈夫。敵じゃないよ。これが私の能力、私の家に昔から伝わる【邪行じゃこう】の力だから」

 神代が落ち着いた声で話しかけてくる。

 僕を安心させようとしているのはすぐにわかった。

 彼女の隣にいるなにかがゆっくりと動き出して視界に入ってくる。

 その姿は真っ黒な球体だ。どちらかというと球体よりも楕円形に近いが、よく見れば穴らしきものがいくつか開いている。それらは目や鼻、耳の役割を担っているように思えた。



 まるで黒い球体の化物だ。

 そしてその考えは、すぐに正しいとわかる。

 黒い球体の目にあたる部分に光が灯り、口と思われる部分がぱっくりと開く。

 真っ暗な闇を丸めたような球体。その口の中にもまた、底の見えない闇が広がっていた。

 あいつに飲み込まれたら最期。もう二度と外には出てこられないような気がする。



 僕は恐怖した。

 正直、人型の黒い化物よりも恐ろしいとさえ思った。

 それでも、神代の手を離さないように力強く握る。

「久しぶりの食事だよ。残さず食べなさい。悪喰!」

 悪喰というのが黒い球体の化物の名前だろう。神代の命令を聞いてすぐに球体が動き出す。

 そいつは空にスッと浮かび上がって蛇行するように飛んでいく。

「速いっ!」

 神代の出した黒い球体は僕が出した黒い盾と同じくらいの大きさだ。だが、見た目に反してものすごい速さで勢いよく進んでいく。そして盾で抑え込んでいた人の形をした黒い化物に大口を開けて食らいつく。

「あれ……?」

 気がつけばいつの間にか盾を叩く音が一切しなくなっていた。

 悪喰の攻撃が効いたのかもしれない。盾を少しずらして状況を確認する。

 そこには黒い化物が二体いた。

 一つは悪喰と呼ばれる神代が出した闇を丸めたような化物。

 目は怪しく光り続け、大きな口を激しく動かしている。

 もう一つは、人の形をした大きな黒い化物。だがその姿は、もはや人の形を留めていなかった。

 なぜなら、二メートルはあった巨体が半分以上なくなり、下半身しか残っていなかったから。

 まさか……。



「食べた……?」

 真っ黒な球体が急に体を反転させてこちらを向いた。

 こちらの声が聞こえたのだろうか。耳と思しき部分はしっかりとその機能を有しているようだ。

 悪喰はこちらのことは気にもせず、口を動かし続けている。

 人型の黒い化物に目を向け直すと、下半身が地面に崩れ落ちていた。両足はかすかに動いているが、しばらくしたら動きを止めてしまった。

 そして地面に黒いシミのように広がっていく。だがそれは、シミではなく影のようにも見えた。そして最後には跡形もなくなってしまう。

 先ほどまで感じていた手首の痛みは、いつの間にかなくなっている。それでも、まだ油断はできない。盾をいつでも動かせるように意識を集中させておく。

「真木野!」

 耳元で大きな声で僕の名前を呼ぶ声がした。声の主は、もちろん神代だ。

「ありがとう! 手をつないでくれて、手を離さないでくれて、悪に手を染めてくれて……。なにより私を信じてくれて……本当にありがとう! あなたのおかげで倒せたよ!」

 その言葉を聞き、彼女の笑顔を見たら、ようやくホッと一息つけた。

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