第31話 10-5 決めること終えること
静かな部屋の中でただ、二つの金属がお互いを叩く音が一つ。
その度にぱさりと小さく髪の毛が落ちる。
それが何度も、時には少しの間を置いて瞑想的に続く。
少女は作業が続けられていく中で微睡むような時間に揺蕩う。
そうしていると昔に戻ったような錯覚を覚えるがあの時から三者とも長い道を歩いてきた。
そして、今も大きな分かれ道へと確実に近づいている。
ゆっくりとした不可逆な流れ。
少女は二人の姿を目に焼きつけ続けた。
そうしているうちに始めた時には随分と量感のあった無秩序な髪は人並みに整えられていった。
翼はドライヤーの強風をかけて落としきれていない髪の毛を落としていく。
ワックスを髪の毛に馴染ませると遊ばせていく。
「こんなものかな」
「俺には流行りとか分からないから判断は翼に任せる」
翼は岬の顔を四方八方から覗き込むと自らの手並みに満足げに頷いた。
翼は一度その場を離れ、手についたワックスをお湯で落とす。
そのついでに手鏡を探し出して岬にも己の髪型を確認させる。
岬から異論がないことを告げられた翼は何度も岬の肩を叩く。
「まあ、体の横幅が細いこととやけに肌が白いことを除けば中々かっこいいんじゃない?」
「辛口評価だな」
「もやし」
「それは何というか男としてのプライドってやつが傷つくからやめろ」
「悔しかったら今後取り戻していくことだね」
岬は少し顔を沈めると翼に笑いかけた。
「外で歩きながら話さないか?折角髪も切ってもらったしな」
少女を含めた三人は町中を練り歩いていた。
どこに行くという訳でもなく気ままに道を曲がり、そこにあったものについて言葉を交わしあう。
時には店に立ち寄る中で気付けば日はやや傾き始めていた。
二人が歩いている横に歩幅の違いに難儀しながら少女は並ぶ。
二人の手は僅かに開いており、少女はそこに手を滑り込ませた。
透けて手からはみ出しながらもどうにか二人の手の動きに合わせる。
少女は山の中で取り戻した記憶を思い返していた。
岬は辺りを忙しなく眺め回していると翼は悪戯げに口の端を歪めた。
「何年も外に出てなかったら見覚えのないものも多いよね」
「変わってないものもそれなりにはあるけどな。さっき通り過ぎた山本さんの家はラジオ体操で一緒だったいい歳した山本さんだろ?」
翼の歩く足が遅くなる。
「……今住んでいるのは息子さん。山本さんは今老人ホームにいるから今度見舞いに行けば山本さんも喜ぶと思うよ。岬のこと心配してたから」
「そう、だな。ああ、そうしたい」
「転んでから衰えるのが早いらしくて。なるべく早めにね」
少女は家から死に行く運命の残滓とでもいうべきものを感じ取った。
死神が枕元に立つのも近いのだろう、少女は自らの記憶にもあるその人の幸を祈った。
岬は足が止まった翼を置いていくように歩く速度を気持ち早める。
急いで追いつく翼を岬はわざとらしく汗を拭って出迎えた。
「待ってよ」
「遅いのが悪い。久しぶりの身にはこの暑さは堪える」
「だったらあの公園で涼もうか。近くの自販機で何か買おう」
その公園は不毛な砂地に近かった。
不自然に空いたスペースにただ砂利が散乱している。
遊び場になりうるのは仕切りが低すぎて踏み外す危険のある砂場くらいしかない。
日陰にあるテーブルは無造作に生える草木に埋もれながら最低限の機能を果たしている。
公園で遊ぶものを対象にしていないとしかいいようがない、道路に顔を向けている自販機から二人は公園の様子を窺った。
「ここも変わったな。遊具がいくつかなくなっているけど子供の目から見ても危なかったもんな。いつか撤去される気はしていたよ」
「まあ味気なくなって子供も来なくなっちゃった。大人が団欒するにせよここよりいい場所はもっとあるし。……日差しが心地いいのはいいけど岬の言う通りまだまだ暑いね。何飲む?」
「水かお茶だな」
翼は一番安い水とお茶を一本ずつ購入すると先に手に取った方を無造作に渡す。
岬は手に取ったお茶のラベルを一瞬視線をなぞると開封して傾けた。
テーブルまで歩くと膝ほどの草をかき分けて腰かける。
翼は向かいに座ろうとするも押し退けた反った草が元に戻るのを二度繰り返したのち岬の横に腰かけた。
少女は草に頓着することなく向かいに腰かける。
「日陰といってもほとんど詐欺みたい。少しも涼しくない」
「草がこんなに伸びてる時点で気づくべきだったな。まあ座れれば良し」
「ずっと日光を浴びてなかったんだからそれを取り戻すくらいでいかないとね」
岬は砂場に目を向けた。
それから遊具があった場所に一つずつ目を移すと大きくため息をつく。
「閉じこもってから随分と経った。皐月が死んでから何もかもが進んだ。変われなかったのは俺くらいか」
「無理もないよ。私にとっても辛くて仕方がなかったのに岬なら尚更」
「あの日、苦しくて意識が濁っていく中で死ぬんだと思った。なのに生きてて聞けば皐月が死んだなんて聞かされてどうしようもなくなった。皐月が燃やされて小さい、小さい骨になったのを見て心がどこにもいけなくなった。どうして俺が代わりになってやれなかったんだろうって。寝ても覚めてもずっとそればかり考えていた。もしそれができれば皐月は幸せになれたんだ。自分を責めなかった日はないよ」
翼は諭すように首をゆっくりと振った。
「そうじゃないよ。責めるべきは岬自身じゃないんだよ」
「そして翼でもない」
「違う。違うよ」
岬は勢いを増し始めた翼の話を無理やり遮った。
「俺はもうすぐ死ぬってさ。だからもう、いいんだ」
冗談にならないことをあっけらかんと言い放った岬に翼は少しの間呆けた。
その後身を乗り出し、岬の肩を強く掴んで問い詰めた。
「元気になったのに?まさか自殺するつもりじゃないよね?」
「まさか。元気になったのも単に蝋燭の光は消える前が一番明るいとかいうやつ」
乗り出していた体を元に戻すと翼は一度水を口に含むとじっと視線を注いだ。
「……皐月ちゃんは関係あるの?」
「教えてくれた、というのかな。まあそんな感じだ」
翼は岬の言葉に込められた哀しみと確信を感じ取った。
丁度皐月が帰ってきたと言った時のような。
翼は震える喉を強いて声を絞り出した。
「私を」
「置いていかないで、か?違うぞ。翼が歩き出す時が来たんだ。まあ、その、偉そうに言っているけど感謝してもし足りないし、まともに返さずにいなくなるのは自分でもどうかと思ってはいるんだが」
翼の毅然とした表情が崩れていく。
テーブルに手を置くと翼は泣き伏した。
「本当だよ。もらった分返すのは当たり前だよ」
「そういうところは変わらないな。翼は何も気負わなくていい。自分を許してやれ。皐月だって翼と話せてたらそう言うさ」
見えない以上お墨付きにはならないが少女は一つ頷いた。
「ほら、皐月って昔から優しかっただろ?俺たち二人の喧嘩の原因がどっちであれ親に叱られてたら二人ともを庇ってた。だから今回もそうするはずさ」
翼はしばらく地面を見ていたが頬に伝った涙を何度も拭い落とすと調子を取り戻した。
「……いつ死ぬのかは分かってるの?」
「近いうちにとしか」
「そう。心臓にはよくないね。携帯持たせておけばよかった。すぐに見つけるからその後は安心してくれていい」
「最期まで迷惑かける」
二人は力の限り抱き合った。
「ありがとう翼。随分と助けられた。俺はお前を忘れない」
「ありがとう岬。私、貴方に出会えて良かった。皐月ちゃんにもよろしくね」
お互いを刻み込むような固い抱擁の後ゆっくりと離れた。
翼は最後に目を細めると手を振って身を翻す。
そのまま視界から完全に消えるまで視界から外さずに歩いていった。
少女も同様にずっと翼を見続けていた。
巡り合うことはもうないだろうから。
翼がいなくなったあと見計らったように一匹のカラスが少女のもとに降り立った。
その脚に括り付けられている紙には上司の押印と死の運命を待つ身である兄の存在を探知した死神がいることが記されていた。
他の死神が死に行く兄を嗅ぎつけるということ。
決断の時が迫っている。
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