第29話 10-3 光点

 木岐杜岬は妹に向かって手を伸ばした。

久しく動かされなかった体は加減を見誤り、あっけなく体はベッドからずり落ちる。

落ちる途中に爪を引っかけたのかゴミ袋の一つが破け中身をまき散り、埃が踊り狂う。

それに頓着することもなく岬は狂い、中身に塗れた手を縋りつくように伸ばす。

けれども伸ばした手は妹の体をすり抜ける。


「皐月皐月皐月皐月皐月」


幻だという発想もないのか喉を潰しながら岬は叫び続けた。


「兄さん落ち着いて」


「ずっと一緒だって約束したのに!」


少女はその声に込められた時間と想念の重さに怯んだが必死に声を張り上げた。


「兄さん!」


何年も大きい声を聞き取ることのなかった鼓膜は少女が意図した以上の衝撃を岬に与え、岬の体から力が抜ける。

少女は優しく語りかけた。


「兄さん。私。皐月だよ。話すと長くなるからまず少しでも体の元気を取り戻さないと」


「そうだな」


岬は這いながら冷蔵庫にたどり着き、難儀しながら開けると弁当を取り出した。

そのままふらふらとゴミ袋に足を引っかけながらテーブルにたどり着く。


「最初に灯りをつけるように言うべきだった。ごめんね兄さん」


「灯り……電源どこだっけ」


「私が案内するから」


少女の言葉に導かれ岬は電気をつける。

目の前には亡くなったときの背丈のまま、けれど白い髪の妹がどうしてか目をつむって立っていた。


「皐月?どうしたんだそれ。それに腕が」


「驚かないで」


少女がゆっくりと目を開くと爛々と輝く赫い目が岬を見据えた。

今までからでも尋常のことではないのは分かっていたがそれでも本能的に危険を訴え、心臓が早鐘を打つ。


「驚くとよくないから」


そういうと少女は兄に笑いかけた。

何もかもが事情が分からないほどに変わっていたが笑いかけるその様は何も変わっていない。


「やっと見れた。久しぶり兄さん。だいぶ痩せた」


 少女は兄の体への負担を考えて向かいの椅子を引いてもらうことを諦めてベッドに腰かけた。

そこで兄がゆっくりとおぼつかないながらも食事を進めるのを見守った。


「兄さん体によくないからあまりがっつかないように」


「ああ」


「喉に詰まらせないように水も」


「ああ。それで皐月の話って何だ」


少女は悲し気に微笑むと兄に隠していた鎌を部屋の外から取り出して見せる。

鈍く光る大きい鎌の物々しさに岬は唾を飲みこむ。


「私、死神になったの。それで……それで……」


段々と少女の声はか細くなり、全てを言い切る前に立ち消える。

岬は妹が口を噤むのを見て、言葉の続きを悟った。


「死ぬのか。まあ無理もないか。翼がいなければとっくに死んでたしな」


「翼お姉さんが」


少女は懐かしい名前に小さく笑う。

今まで兄に尽くしてくれたことに目頭が熱くなるような錯覚を覚え、思わず目元を抑える。

妹が調子を取り戻すのを見計らって兄は何気なく聞いた。


「それで、俺はいつ死ぬんだ」


「近いうちに。今すぐに終わらせることもできる……けど」


少女が鎌を持ち上げ、兄を見上げたところで家の扉を数回叩く音が届く。

岬は横目で少女を見る。


「皐月のことは言っていいのか」


「普通なら人は私のこと見えないから言っても信じてもらえないよ」


「そうなのか。じゃあどうしたものかな」


何度か上手く差し込めないのを窺わせる音の後にドアに鍵が差し込まれる音が続いた。


 翼は家に入ろうとする決意するたびに胸が締め付けられる。

それは苦労することではなく己の過ちと向き合うこと同然だったから。

自分に誕生日プレゼントを買おうと意気込んで兄妹二人で行ったのが悲劇の始まりだった。

子供ながらの打算でそれとなく口にしたことを兄妹が叶えようとしてくれたことが全ての始まりだったから。

そして、ずっと付き合いを深めていた家族は大事な一人の子供を亡くしてしまった。

あの日からできてしまった欠け落ちた大きな穴を時間が癒すことはなく、空いた綻びは少しずつ大きくなり、バラバラになった。

親の行方を誰も知ることはなく、一人残された岬もいつまでも終わらない苦しみに身を沈めている。

その引き金を引いたのは自分。

だからこれは贖い。

あの日から毎日何千回も繰り返す終わりのない贖罪。

手軽に済ませられるチャイムを鳴らさず扉を何回も叩くのも自分が放り出さないようにするための足かせ。

同時にそれは誰に求められるでもなく自分で決めた独りよがりでしかなかった。

小気味いい音が開錠を知らせる。

意を決して翼はドアノブを捻った。

家に入ると想定していないまばゆい光が網膜を刺す。

確かに何かあったときのために光熱費や水道代を出し続けていたのは自分だが、使われることがあるとは考えてもいなかったために立ち尽くす。


「電気が……ついてる?なんで?」


思わず呟いた翼を久しぶりに聞く声が出迎えた。


「心配かけたな」


あまりに声を発してこなかったために声はか細いが確かに自分の幼馴染の声。

翼の目から涙がとめどなく流れ出す。


「なんで……どうして、なの。分からないよ。そんな、急に」


「皐月が帰ってきたんだ」


翼は岬の顔を見つめるが声にも表情にも偽りは見られない。

目も狂騒に浮かされた様子はなく、理性的なそれだった。

光が漏れている先、僅かに見える室内も中身が散乱しているゴミ袋もあるが確かに体を自らの意思で動かした形跡がある。

言っていることは信じられず、また余りにも急である。

それとも一周回って絶望から解放されたのかという考えが頭に浮かぶ。

それは手放しに喜べない上にそもそも喜ぶという行為自体が心のどこかで疎んじていた表れのように思えてならない。

本来なら自戒するところなのだが何故かこれを悪い兆しには思えなかった。


「あがってもいいかな」


「今更遠慮することないだろ」


「そう……だったね」


翼が部屋に入るとテーブルの上には食べかけの弁当があり、間が悪い時に来てしまったことに罰の悪さを覚えた。

部屋の臭いは相変わらずだったが以前の容体を考えると無理は言えなかった。

それに彼が戻ってきたと言っている皐月は影も形もない。

翼が聞くべきか聞かざるべきか決めあぐねていると岬は翼の戸惑いに首を傾げた。


「ああ、ゴミ袋破けたから掃除しないといけないよな。これ食べたらやるから少し待っててくれないか」


「いや、今からやるよ。こことっても臭いもの」


岬は目を丸くする。


「そうなのか?気づかなかった。言ってくれればいいのに」


「言ったところでやらないでしょう」


「そうだったな」


二人は互いに見合わせると笑い合う。

少女はそのすぐ傍の壁に寄りかかって二人のやりとりを眺める。

美しく成長した翼を見て少女は改めて経過した時間を自覚し、その間兄の面倒を見てくれた彼女に改めて感謝をした。

普通であればこれから止まっていた二人の時計の針が動き出すのだが兄に死の運命が訪れる日は近い。

少女は死の運命を曲げられないどころか兄の命の収穫を成さねばならない己の無力さに唇を噛んだ。

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