第23話 8-4 祈り
少女は樹に力なく寄りかかると死体に目を移した。
いつの間に嗅ぎつけたのか死体の顔には二匹ほど蠅が止まっている。
改めて死んだはずなのだと確認して少女は目を瞑ると鎌から戻ったカラスを肩に止まらせ、それを撫でながら考えを整理した。
見せつけるようにしていたことから冥道居士は指を持っていると見ていい。
だが指はあくまで媒介であり、今となっては無用のもの。
記憶は魂と結びついているのは山での一件から明らかだった。
にもかかわらず記憶が戻ってこないのはむしろ冥道居士だからこそなのではないだろうか。
今までと違って唯一霊的存在に通じており、今回こそは例外にあたる可能性も十分にある。
暫しの間少女は待ってみたが特に状況が変わることはなかった。
何より記憶は今完全に取り戻さなくてもいい。
穴空きではあっても自分がどういうものかをおおよそ掴んでいる。
考えるのをやめ、目を開いて歩き出そうとした少女の体を言いようのない不快感が襲った。
(((これが死か……これを超えるために全てを)))
その思念は自分の体より発せられている。
少女は己を蝕む存在を認め、どうにか抗おうとするも体が覚束ず膝を折る。
少女の左腕が錆びついたマリオネットのようにぎくしゃくとひとりでに動き、少女の首を折りにかかる。
カラスがつつくも左腕はびくともしない。
(((形は問わないと言ったであろう。肉体を保つのが最上ではあったが、この体貰い受けるぞ)))
少女の体は崩れ落ちた。
視界が霞み、思想も途切れ途切れになっていく。
(((醜い。醜いぞ。今お前の目を通して見えるあの体のなんと醜いことか。あれは蠅に集られ卵を生みつけられ蛆に食い荒らされる。骨を野に晒し続ける。それをした蠅どもも虫に鳥に貪られる。それが繰り返されていく。それのどこが正しいものなのだ。だがそれも頓着する必要はなくなる。この体の主導権を奪い、永らえよう。それを遠い意識の底で眺めていればよい)))
ぼんやりと眠るように少女の意識が闇に沈んだ。
少女は記憶に触れていた。
未だに戻らない自分の生。
自分の名前すら分からない己の生。
それすらこれから奪われるのだ。
少女は己に再度降りかかる悪意に敵意を燃やした。
いつか魂に干渉して宥めたようにその怒りを己の魂に叩き付け一度だけ意識を蹴り上げる。
少女は狂おしい痛みの中で自らの記憶が凄まじい勢いで開かれていく。
その中で一つの閃きがよぎった。
混濁していく少女は自分に残された一欠片を振り絞り、右腕を強いて自らの体に鎌の刃を沈めた。
「この体はあげられない。それならいっそ」
(((おのれ)))
死神は死神の鎌では自傷できない。
死神は死の運命にあるものを刈り取る。
ならば死神の鎌で自傷できる所にこそ冥道居士は根を張っている。
少女は躊躇いなく一心不乱に自らの体に鎌を突き立て、反応を確かめていく。
鎌が自らの体を大なり小なり抉っていくたびに冥道居士は獣のような唸り声をあげて張り巡らしていた根を引き上げていく。
そして、少女は自らの体の中で最も容易に傷つけられた場所、すなわち冥道居士を追い込んだ場所である自らの左腕を肩の付け根から切り離した。
先程まで自分の体だったそれは今や単なる塊となって落ちる。
少女が鎌を振り上げると差し込んだ光を照り返す。
それが冥道居士が見た最期だった。
いつかの大事な時。
まわりは熱くて屋上にいる人たちは息をするのも辛そうだった。
少女がずっと見ていたのは気を失っていた一人。
それが誰なのか今なら分かる。
これで兄さんが助かるのなら、兄さんがこの先も幸せであって欲しい。
兄さんの行く先がどうしても気になってしまう。
月にでもなれば見ていられるだろうか。
兄さんはきっと夜には思い出して悩んでしまうから。
少女は見えない月に手を伸ばそうとしたが身を起こす力もなく彼女の意識は深い闇に沈んだ。
少女は自分の祈りの源が何だったのかを理解して尻餅をついた。
それまではただ流されているだけの映像に過ぎなかったがずっと自分を焼いていたものの意味合いをようやく掴むことができた。
「兄さん。私の、兄さん」
それがどうしようもなく嬉しくてどうしようもなく力が抜けて笑うことしかできなかった。
そして、それもすぐに止まった。
兄は屋上にいた一人。
つまりは自らの手で兄を刈ることに他ならないということ。
自分で刈らなかったとしても近いうちに訪れる兄の死は避けられないということ。
「私の手で……兄さんを」
少女の心に深々と冷たい刃が突き刺さるのとは対照的に飛び交う虫が夏の訪れを知らせていた。
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