第14話 6-1 蝋燭
死神少女は涙を流していた。
自分の無くしたものの重さを知ってしまったから。
自分の手から引き離されたものの貴さを理解してしまったから。
それ以上に体が自分の意思を一切聞かずただ涙を流す機械に成り果てていたから。
流しても流しても涙は尽きず職務に支障をきたすため、少女は止まる術を求めて足を運んだ。
少女が扉を叩くと「どうぞ」という声が返ってきた。
揶揄われるにせよ心配されるにせよ見られたくなかった少女は涙を隠そうと試みたがそれを嗤うように流れ続けた。
仮に涙が止まったとしても泣き腫らした目元の赤さは誰が見たとしても一目で分かってしまう。
上司は少女の自尊心を傷付けまいと尋ねることをやめた。
ゆっくり歩み寄り、少女の涙を拭おうとしたが少女は距離をとる。
上司もそれ以上距離を詰めようとはしなかった。
「今回の甲の言ったことについて話そうかと思ったがこれは涙を止める方が先のようだ。このままでは私の仕事部屋が君の涙で沈んでしまう。それは私にとって心の底から喜ばしいことだが任された仕事は仕事で大事なものだ。君の涙を私に受け止めさせて欲しかったが、仕方がない。ここから失礼させてもらうよ」
上司は椅子を引き寄せると腰かけた。
「どうして水分をとっていないのに泣くのかといえばそれは魂の錯覚に過ぎない。意識の外から球が飛んで来れば思わずよけるし木漏れ日を受けて思わず眠くなることもある。そのまま眠りに身を委ねれば夢だって時に見る。まあ戯れにしかすぎないが薬にはなる。まずは魂に強く言い聞かせるような感覚を掴もうか。体があるように錯覚しているだけでお前は肉のない剥き身の魂に過ぎないとね。寂しい話で私としてはあまり好まないけれど」
上司の言葉を受けて少女は深呼吸を重ねた。だが、深呼吸も深呼吸をすればリラックスするという肉体があったころの習慣でしかないことに気付く。
少女は深呼吸をぴたりと止めて目を閉ざした。
呼吸も止めて耳も閉ざして、思考も閉ざす。
何もかもを遮断した中で何かが波打つ感覚があった。
無秩序に荒れ狂うそれを万力のように緩やかに押さえつけていく。
やがて抵抗が静まり、拘束を離すと澄んだ音が響き渡る。
少女は職務を忘れるほどの心地よさにしばし浸っていた。
少女が凍結催眠から目覚めるようにゆっくりと目を開けると上司の顔が目の前にあった。
思わず少女が平手打ちをすると上司は大の字で床に倒れ込み、目線だけを少女に合わせた。
「酷いじゃないか私の死神さん。長い睫毛を伏せたまま微動だにしないのは私のとっては据え膳で、食わなければ私の恥だと思わないか。私は君という灯台を標に突き進むだけの哀れな遭難船で今にも崖から落ちかねない迷える子羊。君が何を考えているだろうかと考えるだけで私は一瞬一瞬が星の一生のように感じられて仕方がない。私は君の涙を受け止めている袖が羨ましくて仕方がない。妬ましいとさえ思う。濡れても濡れても君の心に寄り添うことができるから」
上司の顔が突き出されたためか心が乱れたがあれほど荒れ狂っていた感情が凪いでいた。
平常心が戻ってきたのを噛みしめるように少女は手を開いては閉じた。
「今回の報告についての話をしてください」
上司は体を起こすと身なりを整えた。
「前に先延ばしと言ったが継ぎ足したと形容するのが正しいようだ。君は落語の『死神』を知っているかな。死神と組んだ末一悶着あって寿命わずかになった男が死神に命の蝋燭がある地下の世界に連れられる話。終盤赤子の命の蝋燭を自らに継ぎ足して延命しようとする、正にそれだね。君の蝋燭を切り分けて生きながらえたというわけだ。運命から逃げおおせるとは結構なことをしでかしたものだ、感心する」
「……」
「それでどう思ったかな君は。怒りに震えたのかそれとも嘆き悲しんだのか。前に心構えを説いたが自分の考えを表明するくらいは咎めないさ。さあ君がいつも言葉を用いずに雰囲気や所作だけで私への愛情を語らってくれるように雄弁に」
少女は顎に手を当てて激情ではないものの形容し難いものの輪郭を確かなものにしようと言葉を探し続けた。
「誰もが生きたかっただけですから大火事の一件についてどうこう言うつもりはありません。ただ私は記憶を取り戻すことに決めました。怖くはあります。怒りを覚えることもあるでしょう。ですが彼らの終わりに向き合います。見過ごしはしません」
「慈悲深いな君は。怒ってもいいのに。余りに優しすぎて私は君の背後に後光が射すのを確かに見たよ。その慈悲を体現するがごとき広い広い掌で小さく不甲斐ないわが身のことも拾い上げておくれ。そして慈しむように宇宙が断末魔をあげるその時まで後生その胸に抱きとめてくれはしないだろうか」
上司は座っていた椅子ごと延々と回りはじめる。
最近戻った十にも満たない頃の記憶と目の前の光景がぴたりと重なって少女は額に手を当てた。
「結局あなたは何が言いたいのですか」
「これからどうする、という話だよ。死神の時間は永い。私だって生前のケリがついて千年二千年三千年。君とてそう、近いうちに指にまつわることは終わりを迎えるだろうがそれで燃え尽きられると今後に関わる。君の心に寄り添いたいのだよ。最も善い道のりを歩めるようにね」
回るのをやめた上司は急に立ち上がろうとして蹌踉めく。
片足で踏ん張ってはその体が大きく揺らぎ、もう片方でなんとか受け止める。
途中蹌踉めくのを装って少女に抱き着こうとしてきたのをいなすと上司は文字通り血涙を流した。
「……とりあえず職務に戻って考えてみるとします」
「それがいい。事態のほうから飛び込んでくるだろうからそれまでゆっくり考えるのがいい」
「失礼します」
派手に体勢を崩した上司を尻目に少女は扉を閉める。
それまでの僅かな時間で確かなものに出来なかった輪郭について再び考えを巡らした。
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