嫁の失恋
ヌイイト
嫁の失恋
前略
ケイスケさんには悪い事をしたと思っています。
私も頭を冷やしたわ。フミコは泣いているかしら。泣いているでしょうね。夜中にあんまり泣く時は、お宮の辺りまで負ぶって三往復くらいすると、少しは落ち着くようです。お試しあれ。
あの晩、熱海か伊豆かどこか、暖かくて賑やかな所まで行ってしまおうと思って汽車に飛び乗ったのですが、どこで何を間違ったか、朝になって目が覚めてみると、汽車は湿っぽい雪の降る中を走っていました。
私は今、日本海側の小さな漁村で厄介になっています。どこかは教えてあげないけれど。毎日めっぽう寒いわ。
でも、漁師の奥さんに雑魚を分けてもらったりワカメを拾ったりしてなんとかやっているので、心配ご無用です。私はまあ、元気。
毎晩よく寝て、のんびり起きて、松の根本に腰掛けて、鈍色に荒れる海をぼんやり眺めていると、少しずつ、私という女が思い出されるような心持ちがします。そして、ケイスケさんやフミコと暮らしていた私はとは誰だったのだろう。などと考えたりします。
この辺りはお米と水に恵まれた土地でね、お酒が泣けるほど美味しいの。
路地裏の小さな酒屋の片隅に、立ち飲みの出来る狭いカウンターがあるのを発見して以来、日が暮れる時刻になるとそこへ出掛けてゆくのが、目下私の楽しみです。
思えばこの二年半、私ともあろう者が、よくぞよくぞ、一滴の酒も飲まずに耐え忍んだものです。私は私を褒め称えたい。よくやった。ツタ子。偉いぞ。ツタ子。
酒屋バー(私がこの店に付けた名前です)の中では暖かくストーブが焚かれ、その上で、凸凹した薬缶がいつもがしゅんしゅんと音を立てている。裸電球の小さな灯りが、垢じみたカウンターテーブルと、お猪口の底の蛇の目と、路地に面した窓ガラスに映って、そりゃあ美しい。
窓の外に目をやると、向かい側には支那蕎麦屋と鐵工所が並んでいて、その二軒の間に、「宇宙横丁」と書かれた古いアーチ看板が立っている。けれど、そのネオンサインの文字はいつも冷たく消えていて、向こう側の横丁は必ず、ぼんやりと闇に沈んでいるの。
これから書くのは、その宇宙横丁である晩起こった出来事です。
ケイスケさんに信じて貰えるかどうかは、皆目分からないけれど。書くわ。
その日。私はいつものように酒屋バーでワカメとタコのぬたなど突つきながら、すっかり心地よく暖まっておりました。
ふと窓をみると、真っ赤なほっぺたをした女が一人、菩薩のような顔をしてガラスに映っている。ああ。私か。そうぼんやりと思った。可愛らしいではないか。ツタ子。でも何かが可笑しい。私はこんな優しい顔をした女だったかしら。いや。そういう問題じゃあない。何かが違う。何だろう。この騒めきは。
赤いほっぺたの菩薩の向こうへ目をやって、私はハッとしちまった。まるで息が止まるかと思ったわ。
宇宙横丁のネオンサインがね、チカチカと青白く光っていたの。
気が付いたら、私はお猪口に半分ばかし残ったお酒をグイッと一気に飲み干して、店の親父さんに「ご馳走さま。ツケといてください」と言いながら表に飛び出していた。親父さんが夕刊から顔も上げずに、「あいよ。またおいで」と言うのんびりした声が、背中の方で聞こえる。
ちょうど雲が流れて来て、朧な満月を隠したところだったわ。
***
宇宙横丁のアーチ看板は、青白い透明な光を確かに放って、私の足下にくっきりと影を作っていた。
アーチの向こうからは柔らかい風が吹いて来て、その風に乗って、途切れ途切れに聞こえて来るのは、お祭りのお囃子かしら。寄席の出囃子かしら。思えばこの二年半、私ともあろう者が、よくぞよくぞ、一度のお祭りにも、一席の落語にも出掛けずに耐え忍んだものです。
横丁に人の姿は無く、ただ、猫の影がするりと私の前を横切って、植木鉢の向こうに消えて行った。見ると、それはよく手入れされた葉牡丹の鉢で、その白や紫が三つ四つ続いた先には、躑躅の盆栽が几帳面に並べてある。
縄暖簾や油っぽい換気扇。信楽の狸。物干し場の手拭いやステテコ。提灯の連なり。お稲荷さんの赤い小さなお社。ご飯の匂いとお風呂の湯気の匂いとが入り混じった、温かい空気。商売と生活。日々の営みと、それを共有する、見知らぬ家族の気配。
繰り返された、平凡なものの、愛しい気配がそこに満ちていた。
道は緩やかに下って、やがて丁字路に突き当たるようだった。
遠くの方で、静かに瞬く灯が見える。
それはね、規則正しくカタカタと回転する、白と、赤と、青の、小さなサインポールだったの。
思えばこの二年半。私ともあろう者が、よくぞよくぞ、髪を引っ詰めたままで耐え忍んだものです。私は私を哀れんでやりたい。よく我慢した。ツタ子。偉かったぞ。ツタ子。
気が付くと私は、その奇妙な理髪店へと駆け寄っていたわ。
ああ、髪が切りたい!ああ、髪が切りたい!バッサリと髪が切りたい!!
緑のペンキで塗られた重たい西洋風の扉にはガラスが嵌っていて、金の文字で「宇宙理髪店」と書いてある。中を覗くとまだ、橙色の電灯が点っていたわ。
息を整えてから、冷たくなった両手でその扉をそっと押し開けると、向こうには、赤い絨毯の敷かれた螺旋階段が地下へと向かって、どこまでもどこまでも続いていた。…どこまでも。どこまでも。
あのお囃子は階段の下から聞こえて来るようだった。
一段。一段。降りて行くたびに、外界が遠くなって行くように感ぜられる。
一つ。一つ。まるで誕生を逆さに辿るみたいに。産道を遡るみたいに。
記憶が薄れて消えて行ってしまいそうで、私は真鍮の手摺にしっかりとつかまった。
やがて辿り着いた階段の底は、なんだか、母親の子宮のようだったわ。
私達が始まった場所。内側の世界と外側の世界の境目。そんな場所。
けれど何故かしら。
理髪店であるはずのそこには銭湯の番台があって、あの、酒屋バーの親父さんが腰掛けて夕刊を読んでいるの。
「…親父さん」
「おや、お嬢ちゃん。おかえり」
親父さんは記事から目をあげると、私に木札の付いた鍵を差し出した。
「下足箱、そこね」
「でも私…」
「奥であの方が待っておいでだよ。早く行っておあげなさい」
親父さんがにっこりと笑うと、金歯が一本のぞくのが見えたわ。
女湯の暖簾をくぐると、そこは脱衣所ではなく、先へ先へと、仄暗い廊下がどこまでも伸びているのが見えた。
どこかの料亭の中のようだった。よく磨かれた飴色の床板を、所々で切子のシェードのランプが照らしている。
お囃子の三味線が、いよいよはっきりと聞こえて来る。ああ。そうか。どこかのお座敷で宴が催されているんだ。あれは昔、故郷の街で聞いた御座敷唄だ。
時折遠くの方で、弾けるような笑い声が響いて消える。
どこかで水音がしていた。
渡殿を抜け、角を曲がり、やがて廊下が尽きて、最後の奥座敷の襖の前に立った時、私には分かったわ。
ああ。自分はここに導かれて帰って来たんだ、って。
襖に手をかけてそっと開けると、潮の香りがした。
そこにはね。穏やかな海と、明るい日差しが広がっていたの。
***
足の裏に、温かく乾いた、細かな砂が触れた。
テンキグサの穂が揺れて、ハマヒルガオの花が覗いている。
淡い色の草の帯が途切れる辺りに、波打ち際の方を向いて、誰かが立っていた。
顔を見なくてもそれが誰だかわかっていたので、私はそっと近づいて行って、呼びかけたの。
「ケイスケさん…」
ケイスケさんはゆっくり振り返ると、少しくすぐったそうに笑った。
「今はそうやって呼ばれているんだったね」
その笑い方が、あんまりにも、あの頃のケイスケさんのそのままだったので、私はなんだか、胸が痛くなったわ。
「遅かったね。待っていたんだよ」
丸の内のサロンで見習いをしていたあの人が、今、私を見ている。もう二度と顔も見たくない、懐かしい人。
「…ケイスケさん。ごめんなさいね。あたし、お茶を顔にぶちまけたりして。火傷をしやしなかった?」
「そんなのはどうってことないさ」
優しい潮風が吹いて、ケイスケさんの猫っ毛と、私のほつれ毛をそっと揺らして行く。
「さあ、座って」
ケイスケさんは、砂の上の赤いリクライニングチェアを指し示すと、私が腰掛けるのを待った。何もかもが、あの頃のままだ。ケイスケさんが無造作に白いシャツの袖を捲ると、あの頃のままの、しなやかに筋張った腕が露わになる。私が、この世界でいっとう好きな腕。
そのビニル張りの椅子に私が収まると、ケイスケさんは曇りを拭った鏡を流木に立て掛けて、そこに映る私を覗き込んだ。鏡の中では、頬を紅潮させた、小娘みたいな私が硬くなっている。
風の渡る音と、波の繰り返す音。
どこか空の高い所で雲雀が鳴いている。
ケイスケさんは鏡の中を見たまま、私の髪をほどき、腰に下げた道具入れから櫛を取り出す。そして私の真後ろに立つと、私の髪をそっと梳き下ろし、まるで神聖な水を掬うみたいに、その毛先に触れた。
「ずいぶん伸びたね。どんなふうにしようか」
「昔のように。…いつものように」
喉がつかえて、声が震えた。泣き出す直前みたいに。
私がそれだけ言って黙り込むと、ケイスケさんも黙ったまま、優しく頷いてくれた。
ケイスケさんの無駄のない、けれどどこか初々しい動作は、なんだか、神殿に捧げる儀式みたいだった。
骨っぽくて長い指が髪に触れる度、私は私をだんだんと自覚する。
私の宇宙と外側の宇宙との境界。
私と他者との境界。
私が私であることの確かさ。
私の体がここに存在している確かさ。
ケイスケさんの鋏が日の光を反射してキラキラ動く度、私から切り離された髪の房が、はらり、はらりと落ちていく。小さな蟹が足元にやって来て、ハサミでそれをどこかへ運んで行った。
ケイスケさんも私も、口をきかない。
冬と春の境目に、あたたかな日差しと風とが胸に届くみたいに、ただ、完璧な安堵感がそこにあった。
ケイスケさんの優しさが嬉しかったけれど、一番嬉しかったのは、ケイスケさんも今、私に優しさを与えられる事が嬉しいのだと、黙っていても分かった事だった。
ああ。世界は何て完全なだろう。
いつの間にか潮が満ちて来て、私たちの足を濡らしている。
「終わったよ」
ケイスケさんは言うと、鏡の中の私と目を合わせて、ちょっと微笑んだ。
顎のラインできりりと切り揃えた髪に、私はそっと触れる。
生まれて初めて断髪にしたみたいな開放感と、背徳感と、自由と心細さと、罪悪感と決心と、いろんな感情が蘇って、私の中を、突風の様に吹き抜けて行く。あの時の私もきっと、こんな顔をしていたに違いない。
「さあ、じき満ち潮だ。そこまで送ろう」
ケイスケさんはそう言って、私の手をとった。
いつの間にか日が暮れて、遠くの松林の梢に、朧に円い月がかかっていたわ。
あの襖のところまでやって来ると、ケイスケさんは一度私の方に向き直ってから、名残惜しそうにそっと手を離した。そしてその手をポケットにやると、小さな紙包を取り出す。
「好きだったろう」
受け取って、そっと包みを開いてみると、それは色とりどりの鮮やかなゼリビーンズだった。
「…ありがとう」
ああ、ここからは一人で行くんだ。そう思うと、私は駅の改札で肉親と離れる子供みたいに、なんだか急に心細くなって、下を向いた。
その様子を見たケイスケさんは、私の草臥れた銘仙の羽織の肩にそっと手を置いた。そうして、私の顔を覗き込むと、ゆっくりと、静かに言う。
「ツタちゃんは大丈夫だよ。何があっても、何が無くても」
まるで、小さな女の子を慰めるみたいな調子だった。
「僕はきっと君を応援してる。君がどんな世界で、どんな大人になっても。だから安心しなよ」
私はもはや声を出すことも出来ず、唇をぎゅっと結んだまま、手の甲で一生懸命に目を擦って頷いた。まるで、慰められている小さな女の子みたいな様子で。
私には分かった。
ケイスケさんの幻がここに現れたんじゃない。
この、何か永遠に優しく懐かしい存在から、ひと雫がこぼれて、無限の魂の一つに宿って、ケイスケさんになったんだ、って。
***
あれから何度か酒屋バーに通ったけれど、宇宙横丁のあの理髪店には一度も行ってみない。
…というより、あのアーチ看板そのものが消えちまったの。支那蕎麦屋と鐵工所はぴったりくっ付いて、今は猫が通る隙も無い。
酒屋バーの親父さんは、まるで何にも知らないみたいに、いつも通りに夕刊を読んでるわ。
海岸へやって来ると、海は相変わらず鈍色に荒れていて、重たい雲がどんよりと空を塞いでいる。
でも、あの日のことが夢でなかった証拠に、私の頬の横では、冷たい潮風が吹き付ける度に、短く揃えた髪が狂ったように舞い上がり、懐に手をやると、ひしゃげたゼリビーンズがそこにあるの。
…ね?おかしな話でしょう?
もう一度読み直してみて、自分でもあんまり馬鹿馬鹿しいと思ったら、この手紙を出すのはよすわ。
あらあらかしこ
ツタ子より
追伸
この辺りの名物の蒲鉾を送ろうかと思ったのだけれど、日持ちがしないといけないので止めておきます。綺麗な貝殻でも拾ってお土産にするわ。
フミコが寝冷えしないよう、面倒でも腹巻を忘れ無いでしてやって下さい。
婆やにも、あんまり心配し過ぎないよう、くれぐれもよろしく言って下さい。
〈了〉
嫁の失恋 ヌイイト @nuiito
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