4.迷宮の悪意


すえた吐瀉物の臭いと、それを隠すかのようなアルコールの臭い。

嘔吐感を堪える冒険者たちがトイレに列を成し、

一人、また一人と、耐えきれなくなった敗北者が、抑えてきたものを零していく。

何故、このような匂い立つ物質が人間の体内に収まっていて、

しかし、実際に人間の体の中にある間は大人しく、無臭でいられるのだろうか。

人間とは全く凄まじき箱である。

このような中身が収められているというのに、

蓋を開けられるまでは永遠にこのままであるのだ。


女騎士ノミホはトイレへの行列を横目に、迷宮の奥へと進んでいく。

迷宮と言っても、人の目を惑わせるような仕掛けなどはない。

広い室内に無数のテーブルが存在し、冒険者たちが好きに酒を飲み交わしている。

忙しそうに動き回る嘔吐促し人形オウト・マータは店員の代わりか、

命持たぬ人形は給料も求めぬ、エメトの人件費削減方針の一つである。


「頼もう!責任者出てこい!」

ノミホはスタッフルームと書かれた扉を、幾度も叩き、叫んだ。

返答はない。それに躊躇することなく、ノミホは幾度も叩き、叫ぶ。

酒に酔ってもいないのに、酔っぱらいのような様であるが、

しかし、それはノミホなりの必勝の策であった。

そもそも酒を飲まずに、

とっとと邪悪なる魔術師エメトを倒してしまえば良いのである。


「お客様、ちょっと」

嘔吐促し人形オウト・マータが冷静にノミホに声をかける。

普通の人間ならば、慣れている人間であっても恐怖を感じたであろう。

酔っ払いも怖いが、しかし素面で叫ぶ人間はより恐ろしい。

飲酒は理性を緩ませるが、相手が素面であるのならば、

それは、すなわち理性で暴力を働く人間である。

もしも、嘔吐促し人形に心がなければ普通に警察案件であっただろう。


「扉を開くか、責任者を出すか選べ、私は騎士だ」

端的にノミホは告げた。その右手は剣の柄にかかっている。

剣を持つことは脅しではない、とノミホは思っている。

相手の首以外を切り落とし、次は首を斬るぞと言って初めて脅しである。

ノミホは相手を脅す心持ちであった、相手が人形であろうとも。


嘔吐促し人形オウト・マータは何ら抵抗もせずに、スタッフルームの扉を開いた。

「この最奥部に、責任者……邪悪なる魔術師エメトはおります。

 確かにお客様は第一の罠、アルコール飲み放題生ビール含を乗り越えた、

 歴戦の騎士でいらっしゃるようですが……」

「私、知らない間に罠の一つを乗り越えてしまっていたのか」

「ここから先はゲロトラップダンジョンの本番。

 数多の罠と恐るべき怪物が潜む、スタッフルームへの通路です」

「スタッフルームへの通路に数多の罠と恐るべき怪物を潜ませるなよ」

「その美しい顔を歪ませて、

 嘔吐する様……エメト様はさぞかしお喜びになるでしょうな」

「ふん、大した変態だな……」

女騎士ノミホは、躊躇すること無くスタッフルームに続く通路へと足を踏み出した。

「嘔吐メーション化された、スタッフルームへの道をせいぜいお楽しみ下さい……」

不吉なる嘔吐促し人形オウト・マータの言葉を背に受けて。



薄暗い通路を進んでいくと、8人がけのテーブルがあった。

大学生らしき楽しそうな若者集団が、酒を飲み交わしている。

通路は大学生とテーブルに塞がれて、通ることが出来ない。


(こんなところで……酒盛りだと!?あり得るのか!?

 いや、これが……迷宮の罠か!)


「あ!よく来たね!女騎士ちゃん!座って!座って!」

「「「Foo!Foo!Foo!」」」

よく見れば、椅子は1人分空いている。

そして、若者たちはノミホを席に座らせようと促している。


「座らん!通せ!」

「いやいや!ノリ悪すぎでしょ~~!!

 悪いけど、歓迎コンパ終わるまで、ここは通さないよ~~!!」

「そうそう、女騎士ちゃん!とりあえず座って座って、傷つける気はないからさ!」

その瞬間、ノミホは剣を抜いた。

罠にみすみす嵌るつもりはない、破壊して、通る。

横薙ぎの剣が、若者の首を刎ねた――つもりであった。


「あれ~~!?」

煙を斬ったかのように、ゆらりと若者の像が揺れた。

肉を斬った手応えが無い。

その存在が僅かにぶれた若者は、

直後、何もなかったかのように、その姿を戻している。


「幻術か!」

「いや!いや!いや!いや!そんな無粋なことしちゃダメだよ!」

大仰なまでに両手を振って、若者の一人がノミホに微笑みかける。


「ここを通りたければ、歓迎コンパに付き合うしかないよ?

 勿論、不参加なら不参加で帰っても良いけどね……」

「ふん……いいだろう!!

 女騎士ノミホ・ディモ・ジュースノーム、敵に向ける背はない!!」

悪辣たる罠のテーブルにノミホは着いた。


「じゃあ!生8つお願いします!」

どこからか運ばれてきた8つの生ビール。

ジョッキに並々と注がれた黄金の輝きは、

古来より人々を魅了してきた、誘惑の象徴である。

そして、きめ細やかな白の泡よ。

人には出来る。

誰かの頭を撫でてやり、よくやったねと褒めてやることが。

だが、喉の内側を優しく撫ぜてやることだけは、

人間ではなく、生ビールのその白き泡だけが持つ特権であるのだ。


「はい、じゃカンパーイ!からのイッキ行きまーす!!」

「「「イェーイ!!!!」」」

「なに!?」


ノミホが止める間もなく、ノミホの左隣の若者がビールを煽りだした。

イッキ飲みの危険性については言うまでもないだろう。

血中アルコール濃度を急激に上昇させることで、

多大なる健康被害を人間に及ぼすのだ、最悪の場合は死に至る。

イェーマグチにおいても、イッキ飲みの危険性は周知され、

人生で最も調子こいている大学生であっても、イッキ飲みは禁止の傾向にあった。

しかし、邪悪なる魔術師エメトは外法を用いて、

今ここに、禁忌のイッキ飲みを蘇らせたのである。


「ップハァー!!」

一息にビールを飲み干した若者は、快楽の息を吐いた。

この世に2つとなき至上の喜びを得たかのように。


「んじゃ、次俺行きまーす!!!」

「「「イェーイ!!!」」」

だが、イッキ飲みは1人だけに留まらない。

女騎士ノミホの左隣の若者から始まって、

順々に時計回りにイッキ飲みを行っている。

(こ、これは……もしや!!)


イッキ飲みを強要されれば、強固に断る道もあろう。

だが、ゲロトラップダンジョンの罠の恐ろしいところである。

イッキ飲みは自然にそのような流れになるように渦を描いていた。

最早、時計回りではない。

終末時計回りと言っても過言ではないだろう。


刻々と近づいていくるノミホの順番。

それも自分から「イッキ行きます!」と言うように仕向けるように、

もしも、そうでなければこの明るい雰囲気は白けたものになるであろう。


そう思っている間に、とうとうノミホの右隣の若者がビールを飲み干した。


「よーし、じゃあ……行っちゃう?」

期待を込めた7つの視線がノミホを貫いた。

「じゃ、じゃあ……」

強制する言い方ではない、だがその圧力はアダマンチウムの鎧よりも重い。

ノミホは考える。

女騎士の耐久力ならば、精神力ならば、イッキ飲みをしてもおそらく耐えられる。

イッキ飲みをしても――耐えられれば何の問題も無い。


「じゃ、じゃあ……行っちゃおっかなー?」

「「「Foo!!!」」」

「じゃあ、ノミホちゃんを応援しちゃう!?」

「しちゃおっかぁ!!」

「そーれ、イッキ!イッキ!イッキ!」


ノミホが大ジョッキを傾け、一息に生ビールを飲み干さんとしたその時である。

ノミホの手に握られたジョッキが奪い取られ、再びテーブルへと置かれた。


「なっ!」

「離れろ、女騎士!今のお前では勝てねぇぞ!」

わけのわからぬままにノミホの手が引かれ、

無理矢理にコンパテーブルから引き離された。

何が起こっているかはわからない、だがノミホはその手に抗わなかった。

無理矢理にでも酒から離される方が、今は正しい。


気づくと、ノミホ達は戻っていた。

酔っ払いがトイレに列を成すゲロトラップダンジョンの最初のフロアへと。


「大丈夫か、女騎士?」

「すまない、誰だか知らないが礼を言う」

礼を言い、ノミホは自身の手を引いた者を見た。

投擲用も兼ねているのか、数多のナイフを腰に括り付けた軽装備の男である。

如何なる趣味か、エコを気にしているのか、鞄ではなく、風呂敷を背負っている。

おそらく、冒険者の部類だろうとノミホは判断した。


「礼はいい、いや……このゲロトラップダンジョン攻略が俺にとっての最大の礼だ」

「そうか……だが、完全敗北だった……私がまさかあそこまで雰囲気に弱いとはな」

「アルコールの点で職場に恵まれたんだろう、気にするな」

「だが、第一の罠でアレとは私にはとても攻略出来る気が……」

「お前には知識が足りないだけだ……」

男はそう言うと、風呂敷を開き、スマートフォンを取り出し、

あるアプリのインストール画面を見せた。


そのアプリの名は「嘔吐マッピング」


「こ、これは……」

「数多の犠牲者がゲロトラップダンジョンで嘔吐してきた。

 だが……ただ吐瀉物を残しただけじゃねぇ、

 後悔と対策も残してきた、それが……」

「嘔吐マッピングというわけか……」

「ああ」


ノミホは自身のスマートフォンを取り出し、

「嘔吐マッピング」アプリをインストールした。

基本料金は無料。

画面を開いた瞬間に流れる広告は、おっさんがピンを抜くゲーム。


おっさんがピンを抜く順番を間違えて、灰になるのを見ながら、

ノミホは再戦の時を待っていた。

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