戌の陣内

きょうじゅ

戌の陣内

陣内とハンス

第1話

 ひどく、しわがれた声だった。その声は、こう尋ねた。


「このふねは、フォルモサへと、ゆくか。このふねは」


 確かにオランダ語ではあったが、かなりなまっている。しかし、ただ訛っているというだけではないようだった。まるで、話し方を忘れかけている生き物が無理に言葉を話すことにこだわり続けているかのような、そういう話し方だった。


「行くよ。この船はフォルモサのゼーランディア行きさ」


 だけども、問いを発した男は、首を横に振って言葉を重ねた。


「おれはアカズで、その上に聾者ろうじゃだ。話すことはできるが、ことばや音を聞き取ることはできぬ。この船がフォルモサに行くのなら、誰か、おれのこの左手を握ってくれ」


 それを聞いたオランダ船員のひとりが進み出ようとしたが、僕はそれを制した。そして、僕がその男の左手を握ってやった。


「あり、がとう。船賃は、この金子きんすで足るだろうか」


 男は、もう片方の手で大ぶりの金貨を一枚示した。形からすると、JAPANじぱんぐのもののようだ。確か、コバンと呼ばれるものだ。船員のひとりが首を縦に振ったので、僕はもう一度、男の手を握ってやる。


 そして、その手の甲に指で走り書きをした。ものの性質上、そんなに複雑なことは書けない。こう書いた。「むちゃな たび」。


 男ははっとした。しかし、こうしてみるとなんとも大男だ。筋骨隆々という感じで、両目は閉ざされているのだが腰には剣を帯びている。じぱんぐの民が使う、カタナというやつだ。


「そなた、手文字ができるのか」

「まあ、多少。あんたみたいな人間の世話をしたことがあるので」


 既に船には乗り込み、三等の船室――室とはいうが、ただ雑魚寝をするだけの広い空間――に二人並びあって座っている。手文字は時間がかかるが、船の上のことだ、時間は十分にある。


「これは有難い。道中、世話になることとは思うが、よろしく頼みたい」

「いいよ。暇な旅だしね」

「かたじけない」

「あんた、名は?」


 男は答えた。


陣内ジンナイだ。元は日ノ本の侍であった」

「僕はハンス。ハンス・プットマン。貿易商人、と言いたいところだけど、まあしがない行商人というところ。陣内、フォルモサのどこに向かう? ゼーランディア城かい?」


 陣内は首を横に振る。


「シャルフェンベルクと呼ばれるところにある、領主の館に向かいたい。おれの尋ね人が、そこにいるという話を風聞に聞いた。確かめなければならない」

「シャルフェンベルクか。カロン伯爵の屋敷だな。ゼーランディアからなら、馬を借りればすぐだ。馬芸は?」

「できる。この目だからな、己で歩くより走るよりよほど容易たやすい」

「じゃあまあ、馬を借りるところまでは手伝うよ。シャルフェンベルクまで送ってはいけないけれど」

「かたじけない。ならば、代わりに船中道中の護衛は引き受けよう」

「まさか。あんた、そんな身体で無茶を言う」

「そう思うか。一つ、明かしてみせよう。おれの背の向こうの壁に、何か肉が掛かっているな?」

「ああ、ソーセージが船室の壁に吊るしてあるよ」

「では、見ていてくれ」


 陣内はそこで、つ、と立ち上がった。そして、近くに座っていた二人組に、ジェスチャーをしてその場を離れるように伝えた。そもそも、見えも聞こえもしないはずなのに、人がそこにいたことが分かっていたらしい。


 僕も離れる。陣内の纏う空気が、一気に冷たくなった。そして——


 何が起こった? 陣内が、何か動いたのは見えた。刀に手をかけたのも。だけど、みんなにそうと見えたのはそれだけだった。チン、と音がした。


 陣内はいつの間にか刀から手を離しており、そしてどこから取り出したのか雅なさらを持っていて、その上に綺麗に切り分けられたソーセージが載っていた。どうやって? いつの間に? 周囲の人々の間からどよめきが上がったが、彼らは無論何が起きたのかほとんど理解していない。


 ソーセージをつまみながら、陣内は言った。


「きみも食べるかね」


 僕は、食べる、と答えて、自分の雑嚢ざつのうから酒を出した。


 

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