旅路

春風月葉

旅路


 思い出に心を縛られ、病に身体を縛られ、見慣れた天井を眺めるのは何度目だろうか。目を覚ますと同じ景色、目を閉じれば記憶だけを頼りにした曖昧な夢の旅。退屈を知っても、まだ現実に止まっていたくて、また重たい目蓋を持ち上げる。私にとっては当たり前の日常、長い長い一日が始まる。

 こんな殺風景な場所に他人が来ることは珍しい。だというのに、その日は賑やかな声が聞こえてきた。ガラガラと扉の開く音、ドタバタと部屋に足音、ガヤガヤ、ガヤガヤ。

 侵入者は言った。

「お前がさびしくしてると思うて、皆で見舞いに来てやったぞ。」その声はしゃがれていた。その声は懐かしさを感じさせた。

「…。」私も何か話そうとしたのだが声は出ない。

「久しぶりだね。」落ち着いた雰囲気の女性の声がゆったりと言った。

「そうだ、今日はいいものを持ってきたんだ。」先程とは異なる男性の声がそう言うと周囲はなんだなんだとまた騒がしくなった。ガザガサとなにかを漁る音、男性のこれだという声で周囲は一度しんとなった。そしてわっとまた騒ぎ出す。よくやっただの、懐かしいだのという声が聞こえる。視線を向けたいが身体は思うように動かない。

 ふと目の前に誰かの白い右手が現れた。その手は古ぼけた一枚の写真を私に見せた。

「まずはこれ。」と右手の主が言った。それからは次から次へと別の手が私に写真を差し出した。やがて私の視界はたくさんの写真で埋まった。何度も夢で思い出そうとした。もう二度と見ることができないと思っていた。求めていた記憶の中の景色に囲まれたというのに、私の視界はボヤけてしまっていた。

 彼らは写真を置いて帰っていった。部屋はまた、静けさを取り戻した。先程の余韻がまだこの耳には残っている。長いこと渇いたままだった私の瞳は涙の止め方を忘れてしまっているようだ。頬を伝う涙の感覚さえ懐かしい。

 その日、ようやく私は旅を終えた。

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旅路 春風月葉 @HarukazeTsukiha

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