第8話 はじめて口にする物
食事を済ませると、まだ午後五時だ。
咲と出会う前は、精神薬を飲みベッドに横たわり部屋を暗くして、「死にたい」と呪文の様に心の中でつぶやきながら眠りについていた。
生活のリズムを立て直す必要があった。俺は、寝る前の精神薬の飲む時間を、午後八時と決め、就寝時間を午後九時とした。
就寝時間まで、あと四時間ある。
まず咲にトランプの七並べを教えた。何度やっても咲に勝てない。それはそうだ。咲には俺の心が読めるのだから。それでも俺は、ババ抜き、大貧民、ポーカーなど教えた。
俺は、咲に心を読まれない様にいろいろ試みてみた。心の中で的外れな事を思いながら勝負するが勝てない。時間はあっという間に過ぎ、八時の薬を飲み、九時になった。
寝る時、咲はマチルダに戻る。俺は咲に、何故わざわざマチルダに戻るのか聞いた。
「ノンのベッド、セミダブルだけどノンは体が大きいから咲のままじゃ狭くて二人で安眠できないじゃん。マチルダだとノンの腕の中で安眠出来るから。咲のまま寝るならダブルのスーパーロングベッドが必要ね。」
そう言うと「はい!」と気合を入れてマチルダに戻った。
俺は翌日、作業所から帰ると酒を飲むのを止めた。サバを二枚塩焼きにして、納豆と大根おろしを二人分用意した。それとワカメの味噌汁だ。
咲は俺の行動を察知していて、いつもの様にニコニコしている。サバも納豆も大根おろしも咲が初めて口にするものだ。
咲は初めての物を食べる時、必ず匂いを嗅ぎ、舌で舐め、一口食べ、大丈夫だと確認する。俺の心を読んでいる形跡があるが、自分で経験するしか無いので恐る恐るだ。その仕草がマチルダとダブり、情けないほど可愛い。
俺の用意した食事を、咲はきれいに残さず食べ切った。
久しぶりに酒を抜いた俺は炭酸水で我慢した。食後の皿洗いは、咲が率先してやってくれる。
その間、俺はパソコンで自叙伝を書く準備をしていた。題名は「人間のカケラ」とした。咲と出逢い、もう一度自分と真正面から向き合おうと決めた。
咲はいざという時にしか俺に心の声を送って来ない。
その気遣いが嬉しかった。
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