第7話 キセキ

 作業を終えて家に帰り、扉を開けるといきなり咲が飛びついて来たのでびっくりした。


「お帰り、ノン!今日、駅前に一人で行ってブラブラしてきた!あたし、ノアというビルが気に入った!ノンが連れていってくれた洋品店が入ってるビルだよ!映画も見れるし大きな本屋さんもある!一階にある車の中で作るクレープ食べて来た!後は、変な男に沢山声をかけられるから逃げて来た!」


 なんてハイテンションなんだ。俺は咲の話を聞きながら友達のいない寂しさを感じ取っていた。


 シャワーを浴びて、スーパーで買った牛ステーキを焼き、レタスとセロリを切り刻みサラダにした。

 

 こちらをジッと見つめる咲に、俺はある事に気が付いた。そうだ、ご飯を食べる咲を見た事が無い。黒猫のマチルダと違うのだから何でも食べるのだろうか?

 

「なあ咲。一緒に食べないか?肉は好きかい。サラダも体に良いんだぞ。」

 一瞬、えっ?という顔をして咲は黙ってしまった。


「お金の心配か?土曜日、炊き出しに参加する俺が嫌なの?」

 咲は俺の隣に座り「食べたい。」と言い、箸を手に取り肉を口にした。


「美味しい!初めてお肉食べた。」


 俺は缶チューハイを飲みながら咲にいろんな事を聞いた。一番聞きたいのは、なぜ俺の様な落ちこぼれの男の所にいるのかと言う事だ。咲は常に微笑んでいて幸せそうだ。


「あたしは産まれた事が奇跡で、今生きてる事が奇跡で、ノンと過ごす日々が奇跡で、明日が来る事が奇跡だと思っている。今この時を楽しむ事が出来ずにいつ楽しむの?あたしはいつでも今、この瞬間が楽しい。」


 俺は、ハッとなった。ここ数年生きていて、楽しいなどと思い感じる事が無いからだ。偶然、黒猫を拾い今がある。俺は、咲のような心の声が使える能力を持ち合わせていない。


「ノンは、心の方程式を知ってる?それを知れば肩の荷が下りて、生きるのがどれだけ奇跡かと言う事が分かるわ。まずは自分と真正面から向き合う事から始めると良いわ。」


 俺は、咲の言葉を聞きながらネガティブな自分と向き合っていた。生まれつきの奇形で口唇口蓋裂として幼い時からいじめに遭い、人とのコミュニケーションが取れず苦しんだ日々。


 精神病の統合失調症と診断され、二十七歳で人間社会から隔離され、長期の精神病院の入院を余儀なくされた事。いったい俺が何をしたと言うのか。


 俺にとっての心の方程式は、死=生きる想い、だ。只々、死に向かい息をしているだけだ。


 俺は、缶チューハイを飲み切り、日本酒の一合カップを開けた。酒を飲んでくつろいでいる時が俺にとってのささやかで贅沢な時間だ。


 隣にいる咲がいきなり俺の鼻をつまみながら「駄目!ノン。奇跡=生きる想い、だよ。ピノキオみたいにこの鼻を高くしちゃうぞ。」そう言うと俺の酒を手に取り、一口飲んで吐き出した。


「何この水!辛い。舌がヒリヒリする。」


 咲は冷蔵庫に飛んでいき、牛乳を取り出し飲んだ。

「これこれ、牛乳大好き。お酒には劇物危険って書いた方が良いわ。あたしを酔わせてもマチルダに戻るから襲えないわよ。」


 勝手に俺の酒を飲んで、何騒いでいるのだと思いながらも、咲の魅力に惹かれている。

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