spring
「久しぶりだな」
大学に向かう途中、聞き覚えのある声を耳にした春季が振り向くと、白髪混じりの中年男性が手をあげていた。
「父さん、帰って来てたんだ」
「ああ。珍しく休みでな。お前の方は元気にしてたか、って聞くまでもないか」
そう言って父は、これから時間はあるか、と尋ねてくる。
「これから大学だけど、少しくらいだったら大丈夫」
「そうか。じゃあ、あそこでいいか」
父が指差したのは、道なりの公園内にある藤棚の下にあるベンチだった。
「いいよ」
頷きつつも春季は、花に蜂とかたかってないといいな、と考えながら、父の隣を歩く。頭一つ分くらい自分よりも背が高い男の姿に、相変わらずでかいなぁ、という感想を持った。空からは温かな日が差しているものの、空気自体はまだ少しだけ肌寒い。
「悪いな。家を空けてばかりいて」
「そんなの今更だって。父さん、ほとんど家にいないじゃん」
春季の指摘に、父は気弱そうな人相を苦笑いで染め、頭の後ろを掻く。
「まいったな。返す言葉がない」
途端に春季は噴きだした。
「冗談だよ。父さんは忙しいんだから、こっちも納得してるって」
「そう言ってくれるのはありがたいが、今年はもう少しこっちに戻れるように上に駆け合ってみるよ」
「うん、楽しみにしてる」
気弱そうな言葉を耳にした春季は、フユ姉が聞けば喜ぶだろうなと思いながらも、おそらく今年もあまり帰ってこられないんだろうなと諦め気味でもある。そうこうしているうちに件のベンチに辿りつき、腰を下ろした。
「大学はどうだ」
「まだ入ったばかりなんだから、わかんないよ。身体測定とかガイダンスとか体力測定とか入門講義とか。色々ありすぎて頭がぐるぐるしそう」
秋姉さんが、慌てないで一つずつ片付けていけばいいよ、と薄っすらと微笑んでいたなと思い出しつつも、当事者になってみればそう簡単には行かないことばかり。まだ、大学というものの中に上手く溶け込めていないな、という気持ちが強い。
「サークルには入ったのか」
「それも検討中だよ。オリエンテーションとかもあったけど、どれがいいかなんて入ったばかりだとわかんないし」
テニスサークル、ワンダーフォーゲル同好会、児童研究同好会、軽音サークル、ミステリー研究会、飲みサークル、フォークダンス部。とにかく大勢の学生が競うようにして新入生の元へと向かってきてポスターを押しつけてきたり、昼食を奢るという体で近付いてきたうえで食事後にさほど興味のないサークルの説明を延々と聞かせてきたり、中庭の真ん中で演奏や演舞などのパフォーマンスを披露してきたり。こちらもこちらで目が回りそうなくらい忙しかった。夏子姉ちゃんはいくつもサークルを掛け持ちしてわいわいやっていたらしいな、と思い出す。それでいてどうしても断われない日以外はしっかり家に帰ってきて家のことをしていたのだから、頭が下がる。
「また、野球をやったりしないのか」
無邪気な問いかけに、春季は思わず笑みを漏らした。
「うちの大学には女子野球のサークルとかもないしね。かといって、今更男所帯に入っていくのとかも面倒だし、受けいれてくれそうにもないし。試合があれば、見に行くくらいはするかもしれないけど」
もっとも、女子野球のサークルがあったとしても入らないだろうけど。そんな台詞を付け加えようとして止める。今だったらそっちでやるのも、まあまあ楽しそうな気がした。
「そっか。お父さんは、野球やってる春季がけっこう好きなんだけどな」
「なんなら、キャッチボールでもやる」
そう告げて、ポケットからボールをとりだす。途端に父が微笑んだ。
「いつも持ち歩いてるのか」
「たまたまだよ」
噓を吐く。ポケットか鞄には常に入れていた。特に投げるわけでもないのに、なんだかんだで手放せずにいる。そんな春季の心を知ってか知らずか、父は、そういうことにしておこうか、と立ちあがった。春季もまたそれに続いて腰をあげる。グローブは春季の分しかなかったため、お互い素手で緩く投げ合おうと前もって約束を交わしてからお互いの間に距離を設けた。
横目で藤棚をとらえつつ軽く準備運動をはじめた。その際、正面からは父の生温かな視線が注がれている。
「なに。じっと見られるの、恥ずかしいんだけど」
「いやな。本当に元気そうだなって思って」
「なにそれ」
笑う。少し間を置いて、父の顔がわずかに険しくなった。
「ここ何年か、色々あったからな。それは心配するよ」
心配してた割には、あんまり帰って来てくれなかったじゃん。そんな言葉を口にしようとして、さっきその件については許したばかりなのにしつこすぎる、と胸の中に留める。
「色々あったって言っても、次の日も、その次の日もすぐに来るしねぇ。いつまでもくよくよしてらんないでしょ」
そう言ってから、投げる合図を送る。父は指でOKのサインを出してから、球を受ける構えをとったあと、
「父さんは、たまにはくよくよしててもいいと思うけどな」
なんて言ってみせた。春季はブドウのように伸びる藤の花を目の端におさめてからゆったりとした動作から投球する。ゆるい球はすっぽりと父の両手に納まった。
「もう充分くよくよしたからね」
「そうか。それならいいんだけど」
どこか気がかりそうな表情を見せつつ、硬そうな体で投球態勢をとる。体が大きいだけにそれだけで迫力があった。
「なにかあったらいつでも父さんに言ってくれよ。どこまで力になれるかわからんが」
直後に放られたのはやまなりののろのろとした球。下手をすれば届かなさそうにも見えたが、ぎりぎり屈むことで捕球することができた。その際、掌から衝撃が伝わってくるのに合わせて、生きている実感が強まった。
「そこは父さんが絶対になんとかしてやるから、とか力強く言うとこなんじゃないの」
「そう言いたいのはやまやまなんだが。父さんくらいになると、自分のできることとできないことくらいはわかりはじめてるからな。だから、それなりにできないこともある」
妙に自信満々に言ってみせる父の言葉に苦笑する。若い頃からなにかとやんちゃばかりしている割には、変なところで慎重だった。
「父さんのそういうとこまあまあ好きだよ」
「それは誉められてるのか」
「さあ、どうでしょう」
自分でも父をどう評価していいのかいまいちよくわからないまま、春季は再び投球態勢をとる。午前の光の下で、紫色の藤の花がよく目に映えた。
その後、何球か投げ合ってから父と別れて一路大学を目指す。まだまだ、講義を休むわけにもいかず、海沿いの道を小走りする。
「それにしても父さんも相変わらずだよね」
夏子の声に、なにが、と春季は応じる。
「たまに帰って来ては、いかにも父親らしいことをして帰っていく感じ。あたしは嫌いじゃないけどちょっとあざとくない」
春季が、本気で心配してくれてるから嬉しくはあるよ、と応じると夏子は苦笑いをしてみせた。
「甘いなぁ、ハルは。父さんなんて、たまにしか帰ってこないんだから、あたしみたいにもっとわがままになってもいいのに」
潮の臭いを嗅ぎつつ、迷惑かけたくないしね、と控え目に応じると、呆れたような溜め息が聞こえる。
「ハルのそういうとこはよくないなぁ。迷惑なんてかけてなんぼでしょ」
夏子の主張に、それは夏姉ちゃんの意見でしょ、と切って捨てた途端、苦笑いが頭の中に響いた。
「あたしはハルにもっとわがままでいて欲しかったな。そしたら、もっと」
そこまで言ってから、どことな悔しそうに黙りこむ夏子。春季もまた言葉を重ねずに先を急ぐ。
海沿いの道から離れると、以前通っていた高校の前までやってくる。そこから響く喧騒を耳にしつつ、なんとはなしに校門から校舎の屋上まで眺めた。
「私はお父さんにもっと甘えてもいいと思うんだけどな」
秋穂の声に、甘える理由がないし、と春季は応じる。
「甘える理由はあるでしょ。ハル君は今、大変なんだから、もっと真剣に、家に帰って来てくれるように訴えるべきだったんだよ」
意気込む秋穂の主張に春季は、それはそれで面倒だしなぁ、と答えた。
「でも、今よりは楽になるでしょ。ハル君、なんだかんだでお父さんのこと大好きだし」
決めつけるような物言いの正しさを実感しつつも、いやそんなに好きじゃないし、とついつい口にしてしまう春季に、秋穂は得意げに笑ってみせる。
「無理しなくてもいいでしょ。もしも気後れしてるんだったら、お父さんの方も頼って欲しいって言ってたんだし、遠慮なんていらないって思うけどなぁ」
もっと頼ればいい。延々とそう主張し続ける秋穂に対して、別に遠慮してるわけじゃないって、と応じれば、溜め息を吐かれた。
「頑固だなぁ、ハル君は。そういうところは嫌いじゃなかったけど時と場合にも寄るよ」
そんな秋穂の意見に、春季は薄く笑い、嫌いなとこが一つや二つくらいあった方が良くないかな、全部好きなところとかそれはそれで不自然な気がするし、などと持論を述べた。秋穂はおかしそうにしながら、
「私は全部好きな方が心が楽になると思うけどなぁ。きっとその辺が合わなかったから」
それきり口を噤む秋穂。気が合わないとこも気にいってたんだけどねと返そうとした春季は肩を竦めようかとも思ったものの、いい加減、校門付近にいる高校生や教師の目が自らへと注目しはじめているのを感じていたのもあり、大学へと急ぐ。
高校を背にしてしばらくの間、住宅街を横切っていく。一軒家や時折現れる飲食店や古本屋などをが目の前を通り過ぎていく中、もう少しで、大学だな、と思いなんとはなしに視線をあげると、よく登った山とそこから飛び出るように剥き出しなっている丘が目に入った。
「ハルキ」
冬香の低い声に思わず体が竦み、なんでしょうか、と恐縮したように答える。
「なんで、もっと真剣にお父さんにずっといて欲しいって言わなかったわけ」
追求を強める冬香に春季は、父さんも仕事があるし無理は言えないでしょ、と返せば、
「正論とか聞きたくないんだけど」
途端に理不尽なダメだしが振ってきて、お手上げだと思い口を噤む。
「今のハルキのわがままだったらお父さんも絶対に聞いてくれるでしょ。だから、望んでいることはしっかり口にして」
冬香の主張に、春季は少しばかり考えを巡らしてから、頑張ってる父さんにわがままもあんまり言いたくないしね、と答えた。直後、冬香の頬が膨らんだ気配がする。
「それじゃあ、ハルキはずっとわがまま言ってるフユを鬱陶しく思ってたわけ」
そう尋ねられた瞬間、反射的に、そう思わないこともなかった、と答えそうになったあと、直前で思い留まり、それとこれとは話が違うって、とお茶を濁す。しかし、冬香は全てお見通しと言わんばかりに、
「別に隠さなくてもいいよ。ハルキがフユを煙たがってたことくらい知ってるし、それでも別にかまわないって思ってたんだから」
苛立たしげに答えた。春季は、そこまでは思ってないよ、と応じはするものの、疑わしげな視線が注がれるのを感じる。
「何年、一緒にいたと思ってるの。フユにはハルキのことは全部お見通しなんだよ」
そうでもないでしょ。内心でそんなことを考える春季は、一転して温かい眼差しの気配をおぼえる。
「本当に全部、知ってるの。特に、今はね」
どういうこと。尋ねようとした矢先、
「四季さん」
苗字を呼ばれて振り返ると、高校の同級生であり同じ大学の生徒でもある日向和之が少し離れたところから手を振って近付いてくるのが見えた。あらためて辺りを見やれば、いつの間にか大学の周り囲う鉄柵とその向こう側に咲きしきるほとんど散ってしまった桜が目に入る。
「おはよう、日向君」
「おはよう。四季さんはこれから講義」
どこかひ弱そうな細身の少年と青年の間に位置するような日向は、両膝の上に手を置きながら息を切らしている。
「うん。って言っても、まだ入門講義とかだけど」
校門に向かって並んで歩きだす。同じ高校に通ってこそいたものの、三年間ほとんど接点がなかった。それにもかかわらず、大学に通いはじめてからここ何日か一番話をしたのがこの日向相手なあたり少々不思議に思う。
「四季さんは、どこのサークル入るかは決めたの」
「それがまだなんだよね。いっそ、入んないっていうのもありかもしれないって思ってるけど」
とりとめのない会話をかわしながら、空を仰いだ。まばらに雲が散った青空が広がっている。とても気分が良いと春季は感じた。ふと、隣を見やれば、日向が神妙な顔をして春季を見ている。
「日向君。なにか、わたしに言いたいこととかある」
そう尋ねながらも、この手の視線は、大学に入ってからあらためて日向に会ったあとから時折感じるものだったので、気になってはいた。日向は恥ずかしげに頬を掻いたあと、
「何て言うのかな。四季さん、なんか柔らかくなったなって」
そんな印象を口にしてみせる。
「そうかな」
「うん。中学の時も高校の時も全体的にもっと荒っぽい印象だったっていうか」
随分とはっきりと言うな、と苦笑いしつつ、どうやら日向は中学も一緒だったらしいことをはじめて認識した。
「家の中は女ばっかだったけど、学校ではだいたい男連中とばっかり話してたから、なんか口調とか移ってたのかもしれないね」
実のところ意地を張っていただけだ。そんな自己認識の表明はまだ薄っすらとした敗北感を伴いそうだったので、今はまだ胸の中にしまったままにする。
「後はまあ、最近色々あったから、突っかかるのも面倒になったのかも」
口にしてから、しまった、と思い向き直れば、日向はどこか気の毒気な視線を春季に向けてきている。やってしまった。
「四季さん。僕にできることがあれば、なんでも言ってくれていいから」
「うん、ありがと」
この関わり合いになって間もない男にできることとはなんなんだろう。無粋な突っこみが心に浮かんだが、ぱっと見た感じ善意からの言葉らしいので、悪い気はしない。
「四季さん、今日の講義いつ終わるの。もし良かったら」
サークルの見学への誘いの言葉を耳にしながら、そんなに心配しなくてもいいのに、と春季は思う。その際、海の中で泡を吹きだす少女の姿だとか、枯葉の山の中からちょこんと飛び出ている少女の指先だとか、安堵したような顔をした逆さの少女の顔だとかが頭に浮かんでは、すぐに消えた。
首を捻りつつ、先を行く日向の下へと向かうべく校門をくぐる。その際、目の前を三匹の色も大きさも違う蝶々がばらばらに飛んでいるのがちらりと見え、綺麗だなと思った。
春夏秋冬 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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