「もう一回、言ってくれないか」

 頭が痛くなりつつ春季は耳元に入りこんできた言葉を信じたくなくて尋ね返す。

「あの女たちはフユがやった」

 嫌々目を開ければ、春季の顔と酷似した色白の肌をした双子の姉は、薄茶色の肩まで伸びた髪を撫であげてから、そんなことをなんでもなさそうに言ってみせた。

 夜中。去年と同じく初日の出を見に行こうと誘いだされて登った山の上の東屋にて、ポケットから取り出したココアをちびちび飲む姉は、ごくごくいつも通りの調子でそんなことを切りだした。

「やったっていうのは」

「殺したって意味。ハルキってそんなに頭悪かったっけ」

 不思議そうに尋ね返してくる。周りは軽く吹雪いているせいもあり、これは死ぬ間際の幻ではないか、と半ば疑いながらも、春季は片手で顔を覆った。

「なんでそんなことしたんだ」

「邪魔だったから」

 躊躇いなく言い切ってから、缶をあおった双子の姉は、もう冷たくなってる、と舌打ちをする。

「邪魔って」

「邪魔は邪魔だよ。そのくらいの意味は」

「わかってる。フユ姉がそう思ってたのも、なんとなく知ってる」

 その証拠に冬香は夏子と秋穂のどちらにもいつまで経っても懐こうとしなかったし、四人で暮らしていても積極的に話しかけたりわがままを言うのは春季に対してのみだった。

「知ってるんだったら」

「けど、その邪魔さっていうのは、殺すほどのことなわけ」

 あまりにも人の命を軽く見過ぎているし、第一、長年にわたって夏子と秋穂の二人と親しくしていた自らの気持ちも踏みにじられてしまったようだと、春季は思う。

「どっちの女もいなくなって欲しいって初めて会った時から思ってたよ」

 一方の同い年の姉の口ぶりにはどこまでも躊躇いがない。邪魔だとかいなくなって欲しかったという以外に思うところなどないとでも言うように。

「なんで」

「今日のハルキはなんでばっかり。邪魔とかいなくなって欲しい以上の理由とかいるの」

「それだけじゃ、納得が行かないんだよ」

 たとえ、きちんとした理由なるものを耳にしたところで、納得できるとはかぎらない。だからといって、こんな曖昧な理由によって夏子と秋穂の命が奪われというのは許容し難かった。

 冬香は眉間に皺を寄せたあと、缶を思いきりあおってから、げっぷをする。瞬間的に馬鹿にされたと思いこんだ春季に対して、双子の姉は掌をかざした。

「フユにとっての家族は、お父さんとお母さん、それにハルキだけ」

 そこで一端、言葉を止めたあと、だから、と春季の目を覗きこむ。まるで周りの闇みたいに暗い色をしていた。

「勝手に家族面してくるあの女たちには腹がたって仕方なかったし、姉だって認めたことなんて一度もなかった。あの女たちの母親だって同じ。全員、他人」

 冬香の主張は、春季がこの双子の姉から薄々感じとっていたことと多分に重なる。しかし、

「けど、実際に血は繋がってるでしょ」

 春季の肌感覚、もとい事実はまた異なる。

「父さんは全員同じなんだし」

「そんなのあの女たちやその母親が勝手に言っているだけだよ」

 本当は違う。そう強く主張する冬香に対して、春季は戸籍という名の物的証拠をあげようとしたものの、産まれる前の出来事である以上、その眼で確かめたことではないと頑なに認めないだろうことが予想できたので黙りこんだ。最悪、他の男の種だとか口汚い答えが帰ってきかねないのが耐え難かった。

「母さんがいなくなったあとにあいつらが家に入りこんできた時から、いつかどうにかして追い出してやりたいって考えてた」

「ってことは、最初は殺すつもりはなかったってことでいいわけ」

 受けいれ難い現実をさしあたっては棚にあげつつ、事実を確認していく。もしかしたら、姉の殺人が手のこんだ噓である、というわずかばかりの可能性に縋りながら。

「うん。だって他人の血とか気持ち悪いし、そいつらのせいでフユが捕まったり死んだりするのは割りに合わないでしょ」

 缶を東屋の中にある机の上に軽く置きながら冬香は面倒くさげに頬杖をついてみせる。

「それでも小さい頃は短絡的に追い出そうとしてたけど、年をとっていくにつれて、あの女たちも大人になったらうちから出て行くかもしれないって思い直して我慢してた。お父さんとかあの女の母親たちを見てたら大人って忙しいらしいから、あいつらもそのうちいなくなってくれるって自分に言い聞かせた」

 少なくとも直接手を下すことが愚かであるという認識は、この双子の姉の中にもあったらしいと春季は理解する。そうなるとより、なんで殺人が行なわれたのか、という謎が膨らんでいった。

「けど、あの女たちはいつまで経ってもいなくなろうとしなかった。夏子とかいう女は、よくこの家でずっとだらだら暮らせればいいねとか気楽に言っていたし、秋穂とかいう女も、ずっと四人でいれればいいね、なんて薄ら寒い笑顔でぞっとするようなことをほざいてた。しかも」

 そこで一端、言葉を止めたフユは黒々とした目で春季を覗き込んでくる。

「あいつらはハルキとフユが過ごす大切な時間を奪っていった。二人でいる時もすぐに入りこんでこようとする夏子とかいう女に、フユがハルキにくっついてると引き剥がそうとしてくる秋穂とかいう女。それでいて二人とも自分たちは平気で、ハルキと二人で過ごそうとする。ハルキの家族は、この家でフユだけなのに」

 顔を伏せ、歯を食いしばった冬香。その様子を見守りながら、春季は自身に対して向けられている姉の執着の深さをあらためて実感する。知っているつもりだったが、ここまであからさまな独占欲のようなものを持っていたとは。

「それで、殺そうと決めたわけ」

「はっきりと決めてたわけじゃない。ただ、そういう機会が飛びこんできたから手を出しただけ」

 一応、殺人そのものは偶発的なものだった、と冬香は語る。

「夏子とかいう女の時は、あっちから人手が足りないってことで買い物に連れ出された。だったら、一人で行くってフユは言ったけど、人手が足りないから二人なんだよ、っておかしそうにあの女は言ったから、仕方なく一緒に家を出た。それからすぐに雪が降りだして、あの女は得意げに、雪が降ってよかったね、なんてまた笑ってたけど、正直、馬鹿な女、と思って苛々してた。そんなフユにあの女は、ちょっと寄り道していかないって誘いかけてきたから当然断わったけど、フユの答えなんて聞かずに強引に引きずっていた」

 夏姉ちゃんらしいな。そんなことを感じながら、少しだけクスリとしたあと、もういない、ということを思い出し、心の空白を意識する。

「あいつがフユを連れていったのは、山の脇にある湖だった。もう大分、春も近かったのに、けっこうな部分に氷が張っていた。あの女は、アイススケートはちょっと無理かな、って残念そうに言ったあとに、どうせなら釣竿でも持ってくればよかったかな、って氷の上に空いた穴を指差した。フユがその穴をじっと見たあとに、どうでもいい、って答えたら、あの女は、いつも通り冬香はノリが悪いねぇ、なんて軽く溜め息を吐いた。その時も仕方なさげに笑ってるのがものすごく腹立たしかった」

 そこまで口にしてから、冬香は手袋に包まれた両掌に力を込めて手にしている缶を歪ませる。

「フユは、姉ぶられるのムカつくんだけど、ってはっきりと口にした。言ってから、いつも通り曖昧に答えるか腹におさめておけば良かったって後悔したけど、あの女は何度か瞬きしたあと、いつになく愉快そうに大笑いしてから、面白いこというね、あたしと秋穂は紛れもなく冬香のお姉ちゃんでしょ、と聞き分けのない子供を諭そうとするみたいに言った。そんな顔を見て、フユだけが熱くなってるのが馬鹿みたいになったけど、それ以上に馬鹿にされてる気がして、あんたのことを姉なんて思ったことはない、って叩きつけた。あの女は一瞬キョトンとしたけど、それでも結局、余裕たっぷりな顔をしてフユの頬を冷たい指先で優しく引っ張っりながら、そっかぁ、と同意してから、でもあたしにとって冬香は大切な妹なんだよね、なんて口にして、それはわかってくれないかなぁ、なんて頼みこむみたいにして言ってきた。なんでこんな顔できるんだろう、ってちょっとだけ怖くなって、これ以上話を聞いてたらフユがフユじゃなくなっちゃう気がしたから、最初に目を付けてた氷の穴にあの女を突き飛ばしたの」

 そこで一端、口を閉ざす冬香。伏せられた表情は春季には窺えないまま、程なくして話は再開された。

「あの女は氷の端を掴んで這いあがろうとしたけど、フユはその掌を何度も何度も踏みつけた。女は最初情けなさそうな顔で、やめて、だとか、助けて、だとか命乞いして、フユもちょっとだけいい気味、なんて思ったりもしたけど、そのうちなんでかさっきまでみたい笑みを浮かべ出したの。フユは不気味で、何度も何度も女の指と手を踏みながら、なに笑ってるの、って聞いたら、女はなんて言ったと思う。いや、冬香がそう思うんならもう仕方ないかなって、なんて清々しい声で口にした。正直、今でも信じられなくて、フユの妄想かもしれないって思おうとしてるけど、水の中に沈んであがってこなくなるまで、あの女の顔は穏やかそのものだった。沈む少し前には、今までありがとう、なんて言ってきて、思わず顔を蹴りこんだ。今でもあの鈍い感触が足に残っていて」

 たっぷりとした沈黙。これで夏子の話は終わったのか、と判断した春季の頭の中では、湖の中に沈んでいく一番年上の姉の姿を浮かんでいて、吐きそうになっている。気を紛らわそうと目の前にいる冬香から視線を逸らし東屋の外の世界を窺うものの、より吹雪が強くなっているのがわかって、自然と体の芯からやってくる寒さを意識することとなった。

 もうこれ以上は聞かなくていいんじゃないか。全てを聞かなかったことにしたいという願望が頭から足の爪先までつたっていたが、既に忘れるのは不可能であると察し、重い口を開く。

「秋姉さんの時も、そういう機会が来たからやったの」

 冬香はしばらく動かなかったものの、やがて静かに頷いてみせた。

「あの女の場合は、フユの高校の創立記念日に、早くハルキが帰ってこないかってぼーっとしてたら、ちょっと付き合ってくれない、って話しかけてきた。フユが突っぱねようとしたら、いいから来て、って炬燵から引っ張り上げられた。もうこの時点で不愉快なことこのうえなかったんだけど、あの女は、大切なお話だから、って訴えかけるみたいにフユの目を覗きこんできた。いつになく必死だったから、フユも少し気圧されて、結局折れて、あの女に着いて行くことになった」

 秋穂が時折見せた押しの強さを春季は思い出す。普段はほわほわとしているにもかかわらず、いざという時には自らの梃子でも動かない頑固さを発揮した。

「着れてこられたのは、今いる山の下にある森。あの女は、秋だと紅葉が綺麗なんだよ、なんて言ってたけど、冬真っ只中だったからちっともそんなのわからなかったし、あの女としては人がいなければどこでも良かったみたい。フユはせっかくの休みの日を削られるのが嫌で、話があるならさっさとして、って言ったら、あの女は深刻ぶった顔でこっちをじっと見つめたまま黙ってるの。迷ったような顔をしたままなにも言わないでいるから、フユは段々苛々としてきちゃって、いいから帰ってしまおうって思いかけてたところで、ようやくあの女が、冬香ちゃんは、なんてぼそぼそとした声で切り出したから、ようやくか、って思って向き合ったら、夏子姉さんがいなくなった時になにをしてたの、なんて尋ねてきた。これ自体は警察にも聞かれたことだったから、雪見がてらに散歩してた、っていう言い訳をした。あの女はまた黙りこんでから、噓だよね、と断言した。フユは鬱陶しくなって、噓じゃないよ、って返したけど、あの女は、私は知ってるんだよ、なんて思わせぶりにこっちを睨みつけてきた。その時のフユはあの女がどこまで確証を持っているのかわからなかったけど、なにが、と尋ねた。そしたらあの女は、あの日冬香ちゃんが夏子姉さんと一緒に買い物に行ったんだって、なんて言ってきた」

 先程までの冬香の話を鵜呑みにするのであれば、秋穂の言は真実であるはずだった。

「フユはカマをかけてきたのかもしれないって思って、行ってないよ、って答えた。実際に、買い物に行く前に女を湖に沈めていたから、あながち噓というわけでもなかったしね。でも、あの時、秋穂とかいう女は、古びた日記帳を取りだしてパラパラとページを捲って、フユに見せたの。あの事件の前日の夏子とかいう女の日記で、いつものうるさい喋りにも似た愚痴に加えて、買いだめしたいから誰か家にいるやつを捕まえないといけないな、というようなことが書かれていた。その紙切れを見せたあと女は、ハル君はお父さんに会いに行ってたし、私は大学合格の打ち上げで家を空けてたから、買い物に行ったとしたらフユちゃんしかないないの、なんて言ってきた。聞いた瞬間、呆れた。だって、ただこれだけの日記の記述だったらいくらでも言い逃れできそうだったから。だから、買い物しようと思った時にフユも家に居なかったから一人で行ったんでしょ、って答えた。これで無意味な時間が終わる、と欠伸を噛み殺しかけた。そしたらあの女ってばフユに詰め寄ってきて腕を掴みあげた。そこから探偵よろしく推理ごっこでもしてくるのかと思ったら、フユの目を真正面から覗きこんできたあとに、やっぱり少しも悲しんでないんだね、とか言ってきた。なにを言い出すんだろうってフユが戸惑ってるところで、あの女は、夏子姉さんがいなくなった時から、フユちゃんは少しも悲しんでいなかったし、むしろ喜んでた、とか言った」

 そこまで告げて、冬香は唇を噛みしめる。

「正直、フユが思ってることを勝手に決めつけられたのは腹がたっていたけど、それがどうしたの、って聞いたの。そしたらあの女は、一年間ずっと考えてたの、なんて情感をたっぷり込めてから、身内が死んだのに喜んでいるあなたはとんでもないひとでなしなんだって、とか言った」

 双子の姉の口の端が大きく歪むのを、春季の目はとらえた。

「そのあとも、そんなひとでなしな妹だったら躊躇いなく血の繋がっている姉に手をかけるなってわかったの、とか、それと姉さんの日記の記述と冬香ちゃんの事件の日の行動がふわっとしているから、これは冬香ちゃんがごまかしているんだなと思った、とか、根拠のない印象を延々とフユの前で話してから、悲しそうに顔をあげた。わざとらしい、薄っぺらい笑顔を浮かべたあの女は、ねえ冬香ちゃん、本当のことを言ってくれないかな、私はどんなあなたであってもあなたの味方だから、なんて語りかけてきた。正直、薄ら寒くて怖気が走った」

 寒そうに両肩を抱く冬香は強く奥歯を噛みしめていた。

「元々、真相を口にするつもりなんてさらさらなかったけど、あの女の身勝手さを見て、絶対に認めるもんか、って意地になった。だから、フユは、知らない、とか、やってない、って繰り返した。けど、あの女は聞く耳を持とうとしないで、私はわかってるから、とか、自首する時は私も一緒だから、とか勘違いも甚だしいことを言ってみせた。正直、苛立ちも限界だったけど、ここで怒鳴り散らすとあることないこと言っちゃいそうだったから、腹の中に押さえ込んだ。そしたら、あの女の方が先に癇癪を起こした。なんで、あなたはいつまでも私に馴れないの、とか、こっちが優しくしていればいつまでも付けあがってだ、とか、私はあなたのことが大切だからこそあなたのことを思って心を鬼にしてるのに、なんてわけのわからないことを延々と口にしてきた。その中でも、今の冬香ちゃんみたいな勝手な姉に付き合わされるハル君がかわいそうだね、とかいう台詞だけは聞き逃せなかった。他人が、フユとハルキの繋がりに土足で踏みこんでくるのだけは耐えられなかったから。そこからは頭に血が昇ったまま掴み合いになって、気が付いたら、足元であの女が頭から血を流して転がってた。その脇に、大きめの石があったから、それでフユが殴ったんだと思う。フユは女が起きあがらないのを確認してから、石を手にして帰った。石は散歩のふりをしてる途中に海に投げこんだ。そのあとはハルキも知ってのとおり、疑われはしたけど、証拠が充分じゃなかったみたいで今日まで捕まってない」

 途端に東屋の机の上にうずくまった冬香は一言、疲れた、と呟く。春季はいまだに語られた事柄の情報量の多さに酔いそうになりながら、うつ伏せになった冬香の方をじっと見つめていた。


「なんで、今、二人のことを話したの」

 それなりの時間が経ち、夜明けが近付いた頃。春季はおもむろに尋ねる。冬香は机に顔を伏せたままじっとしていた。もしや、こんな寒いところで眠ってしまったのではないのか。心配した春季の前で、双子の姉は体を起こす。無表情がそこにはある。

「別に今じゃなくても良かった。一年前でも良かったし、明日でも良かったし、百年後でも良かった。ただ、いつかハルキに話す、っていうのは決めてた。今日になったのは、そういう気になったっていうだけ」

「そういう気になっただけって」

 春季としてはただただ釈然としない。むしろ、さらりとなんでもないことのように片付けられそうになっているのに、納得が行かないという気持ちが強まる。

「強いて言うなら、ハルキの中にはまだあの女たちがいるみたいだったから、だったらもやもやさせたままにするのは悪いかな、と思ったっていうのはあるかも」

 その結果が殺人の告白か。自らの顔が引き攣るのを春季は感じる。

「おれが警察に飛びこんだらとか考えなかったのか」

 その問いかけに冬香は首を捻った。

「それはそれで仕方ないかなって」

「仕方ないって、フユ姉」

「フユは今が一番いいって思ってるけど、ハルキがそう思わないんだったら、それに従うつもり」

 どうしたい。薄っすらと微笑み尋ねてくる姉を、春季は睨みつける。

「二人に悪いとは思わなかったの」

 その問いに、冬香はゆっくりと首を横に振った。

「思わないよ。だって、この一年間はフユの望みどおりになったんだもの」

 そもそも、姉二人など数に入ってなかった、とでも言わんばかりの口ぶりに、春季は憤りを隠せない。一方の冬香の顔は次第に恍惚としていく。

「家事とかは大変になったけど、家の中にハルキしかいないときはものすごく安心できた。あの女の母親たちがやってくるのはちょっとだけ耐え難かったけど、代わりに時々お父さんが帰ってきた時は昔に戻ったみたいでとても嬉しかった。その分、お母さんはもういないんだ、っていうのを実感して、何年かぶりにものすごく悲しくもなったけど、残った家族三人で作って食べたすき焼きは美味しかったし、とても温かかった。そんなお父さんがまた仕事に出たあとは寂しかったけど、ハルキがいたから寂しさも薄らいだ」

 そこまで言ってから、冬香は春季の頬に手を伸ばしてきた。白い手袋に包まれた掌は大分冷たくなっていたものの、その下からわずかながら人肌の温かさが伝わってくる。

「だからフユは、これからも二人でいたいなって、そう思うの」

 どうかな。なんの衒いもない様子で尋ねてくる双子の姉の言葉。

 春季の中の倫理観は、身内としてのせめての情けとして自首を勧めるくらいしかできることはないはずだと思っている。しかし、一方でここで冬香を警察に差しだしたあとの未来についての考えが頭に浮かんだ。今、ともに暮らしている双子の姉がいなくなってしまったあと、一人で暮らし続けることになる。それ自体は大人になれば多くの人が体験するのだろうし、思ったよりも早く独り立ちの時がやってきたと割り切るのが正しいのだろう。だが、生まれてこの方、一人で暮らしたことがない春季にとって、その想像はあまりにも耐え難いものだった。既に二人も大切な肉親を失ったうえで、この少々頭のおかしい姉まで失ってしまったとすれば。他の人間関係に縋ればいい、と言い聞かせようとしたものの、父親や義母たち、それに野球部時代を含めたそれなりの数の友人たちとの間の信頼関係は、長いこと家族との間で育んだものの空洞を埋めてくれる気がしなかった。では、このまま何事もなかったようにこれからもともに過ごせるかといえば、姉二人に手をかけた冬香を許してしまうことはできそうにないし仮に諸々の感情を飲みこめたところでその生活内で春季は自らの心を騙し続けることになるだろう。では、どうするべきなのか。

 眼前にいる冬香は、少しも急かそうとせず、ただただ穏やかな顔で春季の方を見つめている。そのどこまでも続く安らかさを信じられない思いで見つめ返しながら、春季は不覚にもうっとりとした姉の表情を綺麗だと感じた。この期に及んでも、ひとでなしになってしまった冬香を嫌悪しきれない自らを発見し、吐き気がする。

 そうこうしているうちに、段々と暗さが薄れていく。反射的に東屋の外へと視線を逸らせば、空が白みはじめているのが目に飛びこんできた。

 時間は過ぎるし、日は昇ってまた沈むのかな。ありきたりの感慨と肌寒さに身を浸しつつ、春季はもう何も考えたくなくなっている。ただただ、姉の顔とこれからあらわれるであろう日の美しさばかりを頭に浮かべていたい。そう思い腰を上げ、東屋の外に出て、丘の方へと向かう。とにかくより近くで、昇ってくる丸い光源を見守りたかった。後ろからは雪の上を踏み鳴らす足音が聞こえてくる。それに気付かないふりをしつつ、同じように一歩一歩進んでいき、やがて丘の先っぽへと辿りつき、ほっと白い息を吐きだした。

 もうすぐ、夜が終わる。


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