3

 目の中に入ったゴミを手でぬぐったあと、春季があらためて周りを見やれば、両脇の道に立つ木々の多くが紅葉していた。赤や黄に彩られた葉に目を奪われている間、すぐそばで秋穂が微笑んでいる気配を感じとる。

「どう、ハル君。私のとっておきの場所」

 どこか誇らしげな二つ年上の姉の主張に、綺麗だね、と答えたあと、立ち止まって繁々と葉を見やる。これだけの穴場であれば、季節柄、他にも紅葉狩りをしているものが一人や二人いそうなものであったが、幸か不幸か今はいない。地面に目を向ければ、小さな天狗の団扇のような形をした葉が落ちていたので、屈みこみ拾いあげる。そう言えば、昔は鮫の歯の化石が天狗の爪だと勘違いされていたんだっけ。どこかのテレビ番組で見たおぼえがある知識が頭に浮かぶ。同時に、もしかしたらどこかしらに天狗が隠れていてこちらを見ているかもしれないという妄想が浮かびもした。

「喜んでくれたみたいで、私も嬉しいよ」

 素朴な姉の喜び。さしあたっては、その心が平穏であるのであればいいな、と春季は思った。

 二人きりの暮らしから既に半年以上。多少なりとも、心の整理もつくし、元からそうだったように今の生活に慣れもする。料理は毎日交代で作っているし、その他の家事も受験勉強に引っかからない範囲でできるだけやるようにしていた。お互いに周りの人間との付き合いややるべきことの多さからしても、その方が効率的だし、なんとはなしに助け合っていることを実感できた。

 今日の散歩は、二人で気分転換がてらに出てきたようなものである。その結果として、比較的行きなれたと思っていた山の中で、今まで見つけられなかった景色を知ることができた。

「私、夕焼けって好きなんだよね」

 唐突に吐きだされた秋穂の言の葉は、さらりとしてはいたが、それでいてとても情感のこもったものだった。

「夕焼けは、いつも私の前に幸せを連れて来てくれるから。お母さんも、お父さんも、早苗さんも、夏子姉さんも、冬香ちゃんも。それにハル君も。みんなみんな、出会いと始まりは夕焼けの時」

 ふと天を仰げば、茜色の空が広がっている。隣から、秋穂が微笑む気配がした。

「ねっ、今日も幸せを連れて来てくれた」

 秋穂がそう思うのなら、きっといいことなのだろう。自然と春季の胸にもささやかな喜びが湧く。一方で、心の端っこにはいまだ心細さがあった。もう、他の家族とこの嬉しさを共有できないのだと思うと、どうにもやりきれない。視界が真っ赤に染まっていくにつれて、目眩を覚える。

「大丈夫」

 我に帰った。平時と変わらない秋穂の言の葉に、春季はいつにない力強さを感じる。

「ここにいるから。だからハル君は大丈夫」

 漠然とした言葉ではあったものの、そのような言葉こそ、今の春季は求めていた気がした。現に、胸には安堵が落ちてきている。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 この人がいれば、安心だ。そう言い聞かせつつ、辺り一面を取り囲む紅葉をあらためて見回す。


「夏子姉さんと冬香ちゃんがいてくれたから、今の私たちがいるんだよね」

 帰り道。徐々に空が紫がかっていくのを見上げている間、秋穂の声が頭の中に沁みこんでいく。

 なんとはなしにすぐに帰る気になれなかったのもあり、やや遠回りして、かつて秋穂と出会った空き地の辺りを通っていくことになった。

「なに、急に」

「別に急ってわけじゃないよ。ずっと思ってたこと。意識したのは去年の春頃で、強く考えるようになったのは今年になってからだけれど」

 言及された時期を耳にして春季も、まあそうだろうな、と心の中で納得する。

「家の中だって広くなったでしょ。正直なところ、私もまだまだ持て余してる。お料理は去年から本格的にはじめてたから多少は馴れてたけど、夏子姉さんと冬香ちゃんがやってくれていたことを自分がしていると、時々去年まではもう二人いたんだなって思ったりするの」

 そこまで口にしたところで、誤解しないでね、と付け加える。

「ハル君はいっぱい協力してくれてるし、むしろ受験生なんだから手伝ってもらって申し訳ないと思ってる。くれぐれも無理しようとしないでね」

 まだ言ってもいないことに対する釘刺しに、わかってるよ、と同意をしてみせながらも、無理しているのはそちらではないのか、という気持ちになる。

「話が逸れたね。今は二人で生活を回していっているけど、それでも気付けばもう二人の不在を感じたりするの。いない、ってことにいまだに違和感がある」

「それは、わかるかも」

 いない、という事実に対して、いまだに実感が追いついてきていない、と言った方が正しいだろうか。双子の姉がいなくなったのは半年以上前で、一番年上の姉にいたっては一年半以上前の事柄なのにもかかわらず、その事実自体がふわふわしている。いまだに二人ともどこからかひょっこりあらわれるのではないのか。そんな気がしていた。

「そうでしょう。今、こんなことを言うのはあまり良くないかもしれないけれど、私たちは四人でまとまっていたんだな、って。お母さんや早苗さんやお父さんは時々しか帰ってこなかったけど、あの二人はずっと一緒にいたからね」

 もちろん、ハル君と二人きりも嫌いじゃないけどね。おかしげな声が頭の中で響く。なんとはなしに、秋穂の目は声の調子とは大分違う色を宿しているように春季には思えた。

「それでも、二人がいなかったみたいに暮らしてると、なんか私の一部を失ってしまったような気にもなるの。わかるかな」

 秋穂の問いに、春季は黙って頷く。夏子と冬香のもっとも身近にいた二人だからこそ、より深く通じ合うものがあったと言えた。姉は、ハル君ならそう言ってくれると思ってたよ、と答えたあと、

「もちろん、いいことばかりではなかったけどね」

 冗談めかした風に告げる。おやっ、と春季は雲行きの変化を感じとった。

「夏子姉さんのいつでも元気なところは好きだったけど、私の興味のない話をするところはあまり好きじゃなかった。もちろん、中には興味深い話もあったし、十回に一回くらいはためになったと思ったこともあった。けど、ずっと喋り続けているのを聞いてるのはちょっと面倒だったし、たまに嫌になったりもしてたんだ」

 夏子姉さんには秘密ね。既に秘密もなにもない状況になっているにもかかわらず、そんな風に頼みこんでくる秋穂の態度に、春季は曖昧に相槌を打ちつつ、呆然としていた。それでいて、どこかに既視感を覚えもする。

「冬香ちゃんも、見ているとすごく可愛いんだけど、私だけにやけに刺々しくなったりする。最初は誰にでもそうなんだって思おうとしたけど、お父さんやハル君相手にはすごくいい笑顔を浮かべたりしてるし、夏子姉さんや早苗さんやお母さんあたりには素っ気なく振る舞ってはいるけど、なんか私に対してだけはやたらと冷たいというか、当たりが強いというか。私は、ずぅっとずぅっと仲良くしたかったのに、いつまで経ってもあの娘は私に冷たかったし、時にはあからさまに言葉で傷つけにきた。大切な妹だからって、自分に言い聞かせてきたけど、時々、どうしようもなく心が折れそうになったりもしたよ」

 秋穂の笑顔の裏にあった感情の一端。冬香が二人の姉と上手くいっていないのは知っていたものの、その上手くいっていない相手の心にまで頭が回っていなかった、と悔いる。

「その点、ハル君がいてくれて良かったよ。時々、無理してるのに無理してないって言うところ以外は、ちゃんと話も聞いてくれるし、お姉ちゃんのことを考えて優しくしてくれるから」

「過大評価だって」

 おれはそんな人間ではない、と春季は思う。なにより、秋穂の望みの一つを奪ってしまったのだからなおのことだった。直後に姉が首を横に振る気配がする。

「そうじゃないよ。ハル君はずっとずっと、私のことを思って接してくれた。野球を辞めちゃったのは残念だったし、その後に前より元気がなくなったのは気になったけど、また元気になって欲しいなっていう気持ちが強くなったし」

 元気になって欲しい。その言葉に、春季はまだまだ自身がかつての調子を取り戻していないのだという意識を強くする。もっとも、一度変わってしまったものが元に戻ることというのはないのかもしれないが。

「姉さんの方こそ、ずっとおれを助けてくれてたよ。おれのことをおれの望んだように扱ってくれたのは、秋姉さんくらいだったし」

 頭には紅葉のことも浮かんだものの、おそらく娘に合わせたのだろう、というのは察せられたので、実質的に春季の望みどおりの扱いをしてくれたのは秋穂だけだろう。姉はどこかこそばゆそうに、

「やめてよ。私は私の目に見えてるとおりにハル君と付き合ってただけだよ」

 そう答えた。

「それでも、おれはずっと嬉しかったし、今も嬉しく思ってるよ」

「そっか。よくわかんないけど。ハル君が嬉しいなら良かったよ」

 例の空き地のあったあたりにたどり着き、思わず足を止める。そこにはピンク色の少し古びくすんだ塗装に包まれたクリーニング屋が建っていた。たしか春季の小学生が終わる頃にはもうあったので、それなりの時が経過したんだな、と実感を深める。

「また、空き地にならないかなぁ」

 ぼそりととんでもないことを呟いてみせる秋穂。春季は周囲を見て誰もいないのを確認したあと、念のため声を潜めるようにして、

「それなりに繁盛してるみたいだし、しばらくはこのままなんじゃないかな」

 自らの意見を述べる。

「そっか。それは、残念だね」

 素っ気ない秋穂の返答から、今見てはいないものの、なんとなく遠い目をしている気がした。

 程なくして、クリーニング屋から離れるようにしてまた歩みはじめる。

「けど、今空き地になっても、ほとんど外遊びはしなくなっちゃったしな」

「それもそうだね。なんなら、キャッチボールでもしてみる」

 その提案に、遊びだったらいいか、と割りきったあと、秋姉さんがしたいんだったら、と答える。

「楽しみだなぁ。ハル君がボールを投げる姿、私好きだったから」

 惜しみなくお出しされる好意を少々照れくさく感じながらも、たぶんもうそんなに速く投げられないよ、と応じた。

「速さとかじゃなくて、ハル君が投げてるってだけでいいんだよ」

 球の質や速さなどどうでもいい。そんな意味合いの肯定感のたっぷりとこもった言葉に、引っかかるところをおぼえつつも、なにそれ、と茶化そうとする。

「ハル君がハル君としてあることが大事なんだよ。それはどんなところにいても、どんなことをしていても変わらないの。夏子姉さんや冬香ちゃんには、あんまりピンとこなかったみたいだけど」

 いつの間にか、頭の中に響く姉の言葉は、真に迫ったものになっていた。

「二人とも、私と違って、ハル君が野球をやってなかったり辞めたことを気にしてはいなかったしね。もちろん、それでもハル君はハル君だけど、色々考えたり現実を痛感したりして諦めたんだってことを、二人は意識すらしてなかったし、なんでもないことみたいに扱ってた。大切な弟がそのことにどれだけ傷ついたのか、想像力が及んでなかったの。二人とも、自分のことばっかりだから、そうなったんだよ」

「それは言い過ぎじゃないか。夏姉もフユ姉も、自分なりに考えたうえでそんな風に振舞ってくれてたんだと思うし」

 この場にいない二人の姉を庇いつつ、実のところ秋穂の言には同意する部分もある。まったく意識してないということはなくても、夏子と冬香の中で、全力で野球をしている春季と普段の春季との間に差がなかったというのはありうる気がした。

「言い過ぎじゃないよ。野球以外でも、ハル君がなにを思っているのかなんか気にしてないから、二人はハル君がなにかをやっていても、平気で自分勝手な頼みごとをしたりできちゃうの。わかるかな。夏子姉さんも冬香ちゃんもハル君のことを物みたいに思ってるんだよ」

「やっぱり言い過ぎだって。秋姉さんが思うより、二人はおれのことも考えてくれてたよ」

 応じつつも、二人の姉の話の始まりが、個人的なお願いの類である確率がそれなりに高かいなというのは春季も感じていた。ただ、このことを春季自身はあまり苦痛に思ったことはなかった。

「それに物みたいっていうよりは、距離が近かっただけじゃないかな。血が繋がっていると、どうしても自分の一部として扱ってしまうというか。それに、おれは一番年下だけど、体力は一番あったし」

 もっとも、冬香のお願いは体力的なものよりも精神的かつ時間的なものが多かったし、野球を辞めようと辞めまいとわがままの数自体はさほど変わらなかったが。

「そういうハル君の優しさに二人は甘えてたの。だから、疲れてるときも苦しそうなときもいつもと同じように自分の都合を押し付けていたんだし」

「そんなに無理は言ってこなかったって。秋姉さんは少し心配し過ぎだよ」

 なにより、春季はそのいつでも変わらない夏子と冬香の振る舞いに救われていたところがあった。とりわけ、野球を辞めたばかりで敗北感にまみれていた頃、その姉たちのなんでもなさに許されている感じがしていた。

「夏姉ちゃんも、フユ姉も、もちろん秋姉さんも。みんな、自分なりにおれのことを考えてくれていたと思うし、考えていてくれると思ってる」

 とてもありがたいことだよ。そう付け加えようとしてから、途端に恥ずかしくなり口を噤んだ。きっと、伝わっているはずだ。そんな風に思いこむ。

 間が空くと、途端になにを話していいのかわからなくなった。なにか言った方がいい気がするものの、こういう時にかぎってちょうどいい話が思いつかない。

「やっぱり、ハル君は優しいんだね」

 先程とほぼほぼ同じ論調に、即座に反論しようとした春季。しかし、頭に響く声の低さと纏わりつく重さに、なにかしらの躊躇いを覚え、口をつぐんだ。

「ううん、それ以上に甘いのかもね。私を含めて、みんなに甘いの」

 穏やかな言葉はそれでいて、今までにない弟を責める意味合いが含まれているように思える。

「甘いから、いくらひどいことをされたり言われたりしても、しょうがないなで済ませちゃう。ダメだよ。嫌なことは嫌って言わないとなにも言われなかった相手はひどいことをたいしたことないって思っちゃうんだから」

「だから、おれはひどいことなんてされてないって」

 いい加減しつこい。そう思いはじめた春季のかたわらで、秋穂は、すっかり感覚が鈍くなっちゃったんだねとくつくつと笑う。

「ハル君がそんなんだと、ささやかな仕返しをした私が馬鹿みたいじゃない」

 さらりと響いた、仕返し、という言葉に不穏さを感じた。

「どういうこと」

「そのままの意味だよ。ハル君の代わりに、私があの二人に仕返ししてあげたの」

 思わず足を止める。徐々に冷たくなりつつある空気がより一層骨身に染みる気がした。

「夏子姉さんは私がいくら咎めても、わかったわかった、って安請負して、ハル君に自分の都合を押し付けるのを止めなかった。だから、雪の日に一緒に買い物に行った時に、帰り道に海に寄って行こうって提案したの。夏子姉さんってば海に目がないから行こう行こうってすごく乗り気になってくれたんだよ」

 あの日に関する秋穂の証言では、夏子が海に行こうと提案した、と口にしていた。

「前にふらっと行った時に崖のところの手摺りの木材が弱っているのを知ってたから、そこまで誘導してから、気を見計らって、わって脅かしたの。落ちそうになって、心臓がひっくり返るくらい驚いて欲しいって思ってたけど、夏子姉さんがやたらと大袈裟に動くから、綺麗に落ちていっちゃって。ちょっとやりすぎちゃったよね」

 なんでもないようにつらつらと述べられる事柄に春季の表情は引き攣らざるを得ない。

「ちょっとって。それで夏子姉さんは」

「うん、悪かったとは思ってるよ。けれど、ハル君に無茶を押し付ける人が一人いなくなったのは素直に良かったなって、すっとした部分もあった」

 唖然とする。ここに来て春季は、姉との間にあるどうしようもない断絶の存在を実感しはじめていた。

「冬香ちゃんにいたっては私の話に聞く耳を持とうともしなかったから。ちょっとでも話を聞いてもらうには、まずはお灸をすえなきゃいけないかなって。もう家の中にいるのは三人だけになったあとなのに、態度を少しもあらためようともしない娘だから、多少厳しくしなきゃわかってもらないなと思ったから、雪の日に外へとふらふら出て行った冬香ちゃんの後を追ったの。そしたら、なんか山の上の見晴らしが良いところまで登って行ったから、ちょっと大変だったよね」

 冬香がいなくなった日、双子の姉が通っている高校が創立記念日で休校だったらしい。双子の姉がふらっといなくなること自体はそれなりにあったものの、雪は好きでも寒がりだったため、帰ってきた際に家の中にいないのを春季は少しだけ妙に思ったおぼえがある。既に帰宅していた秋穂に尋ねてみても、ごめんわからないや、と柔らかな答えが返ってきて、どうしたんだろう、と心配を膨らましたのをおぼえていた。

「その日の冬香ちゃんはいつになく機嫌が良さそうだったから、そんな気分に水を差すのは少しだけ憚られたけど、私がしなければならないことだって自分に言い聞かせて、木陰から出て行ったの。冬香ちゃんはすぐに顔を顰めて立ち去ろうとしたけど、腕を掴んで無理やり引きとめた。その後、話を聞いて欲しいって訴えかけたけど、フユには話したいことなんてない、の一点張りで、私の手を振り払おうとしていた。これは話を聞いてもらえないな、というのはわかったけれど、言うだけ言えば頭の中には私の声が残るかもしれないって希望持って、言わなきゃいけないと思っていたことを口にしていった。夏子姉さんがいなくなって一人一人の家の負担が増えたこと、だからハル君にわがままを言って迷惑をかけるのは止めた方がいいってこと。他にも色々言った気がするけど、この二つのことを重点的に話して、頼みこんでみたの。けれど冬香ちゃんには、そんなのフユの勝手だしあんたに言われる筋合いはない、って突っぱねた。その後は、言い合いになった。自分で言うのも難だけれど、私にしては随分と熱くなっていた気がする。逆にフユちゃんはどんどん冷たい目になっていったように思えた。傍から見れば、私の方が一方的に罵っていたように見えたかもしれないね」

 そこまで告げてから、秋穂はどことなく自虐的な笑いを響かせる。

「そうやって話しているうちに、ついつい手が出ちゃったの。幼稚園の時以来じゃないかな、誰かをはたいたのって。動物も含めていいならハムスターにデコピンした時以来かな。でも、少し恥ずかしいけど、愛ゆえ、だからね。それで久しぶりだから、力の入れ具合なんて無茶苦茶なまま、ビンタが下顎に当たっちゃって。ちょうど手を離してたから、支えがなくなった冬香ちゃんはバランスを崩して、剥きだしになっていた大きな石に後頭部をぶつけちゃったの。あっという間の出来事で呆然とするしかなくて、ようやく駆け寄った時にはもう、頭の後ろから血が流れていて、冬香ちゃんの息はなかった」

 つらつらと述べられた事実に、春季はどう答えていいものか戸惑ったあと、

「どうして、そのことを警察に言おうとしなかったの」

 月並みな問いかけをした。

「そのことって、夏子姉さんの方のこと。それとも冬香ちゃんの」

「両方だよ」

 声を荒げる。通り過ぎた老人が怪訝な目を向けてきたが、もはや気にしていられない。秋穂は少し考えるような調子で、唸る気配を見せてから、

「最初は私もそのつもりだったんだけどね。むしろ、これは幸運じゃないかな、って思い直したの」

「幸運、だって」

 聞こえてきた言葉を疑う。しかし、それ以外に聞きとりようがなかった。

「そう幸運。どちらがいなくなった時もそうだけど、これでハル君に負担をかける人が一人いなくなったんだって。それなら、私はハル君と手を取りあって平穏に生きていける。少々の心の痛みに目を瞑れば、理想的な環境なんじゃないかって」

「理想的な環境って」

 この姉は頭がおかしくなってしまったんじゃないだろうか。そんな春季に秋穂は、わかるよ、と優しい声をかける。

「私のことが怖くなったんでしょ。でも、想像してみて。私までいなくなって、ハル君、耐えられるのかな」

 その言葉に、去年と今年に姉が一人ずついなくなったことを思った。これ以上、身内にいなくなられたらどうなるか。もはや、考えたくもなかった。

「夏子姉さんがいなくなった時も、冬香ちゃんがいなくなった時も、そのことを考えたの。だから、なにが起こったのかとかは全部横に置いておいたうえで、私は捕まらない方がいいんだなって思ったの」

 そこまで言い切ってから、秋穂の気配がより近くなる。

「大丈夫。これからもずっと一緒にいるから。安心してくれていいよ」

 その囁きから逃れたくて空を仰ぐ。ほぼほぼ紫色に染まった空と月を見上げていると、どんどん頭の中がぐるぐるしてきそうで、思わず目蓋を閉じた。

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