畳の上で大の字になりながら、春季は扇風機の羽がたてる音に耳を澄ます。頬から吹きだす汗が冷たくなっていくのを感じつつ、閑散とした古い家の気配に身を委ねる。

 静かだ。だらりとした暑さの中で珍しく蝉の鳴き声も聞こえなければ、蚊の羽音や、家の敷地外から忍びこんでくる車の立てる喧騒もない。これだけ静かであると逆に不自然さすらおぼえる。突然、湧いてきた寂しさもあり、風鈴でもとりだすかという気分になるが、あいにく、どこにしまってあるのかよく知らない。

 秋姉さんなら知ってるかもしれないな。思いついてすぐ、そんな妄想を打ち消す。いる時が長かったのもあって、いないことの不自然さがいまだに拭えない。さっさと馴れなければ、と使命感にも似た気持ちを抱きつつ、そろそろ立ち上がろうとするものの、どうにもやる気が湧かなかった。

「あんた、今日も辛気臭い顔してんね」

 夏子の声が聞こえる。

「うっさい。おれは元々、こんな顔してるんだよ」

「はいはい。いいから、もうちょい明るい顔しなよ。ほら、あたしみたいに」

 たしかにこの姉はいつも無駄に明るくうるさいが、だからといって春季としては一向に見習う気にはなれない。

「おれがどんな顔してようとおれの勝手だろ。それに元々」

「こういう顔してる、って言いたいんでしょ。はい、噓おつ。あたしはあんたがもっと気持ち良く笑えるって知ってるんだから」

 得意げな夏子に、そっすか、と応じて寝転がる。姉は、無視すんな、と一転して不満げに告げると同時に、畳の上に腰かけたようだった。

「あんたももう高三でしょ。だらだらしてると浪人するよ」

「やることやってるから、休んでるんだよ」

 実のところ、近所の大学で推薦がとれそうなので、あわよくばそのまま滑りこもうと考えていた。親たちも、この件に関しては春季に一任しているため、たいして抵抗もない。

「どうせ思い切り楽しようとしてるでしょ」

 まるで心を読んだのかのような言葉に、そうかもな、と半ば認めるようにして応じる。図星だろうとそうでなかろうと、今更、高い志を持とうという気もさらさらないため、上手くやれるのであれば推薦、失敗したら受かりそうかつ近所だったり学費が安そうだったりする大学をあらためて受け、全部落ちたら落ちたでバイトしながら浪人生をするみたいな道筋が頭の中でぼんやりとできており、周囲にいる多くのクラスメートや友人たちに比べれば緊張感の薄い受験期間といえた。

「どうせなら、あたしのとこの大学受けてみない」

 姉の提案は突飛ではあったものの、とてもそれらしい。

「やだよ。夏姉ちゃん、案外頭良さそうな大学行ってるじゃん」

「案外は余計だよ」

 即座に入る突っこみの軽さに、この人よりもおれの方が頭悪いのか、という春季があまり受け入れたくない事実をより肯定したくなくなる。

「今からだと間に合わないかもしれないけどさ。無駄にだらだらしてるよりは、ちょっとは緊張感があった方が、人生にも張りが出るってもんじゃない」

「張りとか、もう、どうでもいいからな」

 少なくとも、今は不用なものだと春季は感じている。その上、押し寄せてくる暑さのせいで、頭が思考したくないと全力で訴えてきていた。直後に、あからさまな溜め息が聞こえてきた。

「もしかしてだけど、あんたまだ、中学の時のこと引きずってるわけ」

「そんなんじゃないけど、全力でやりたいこととかは特にないかな」

 口でこそ否定したものの物事に全力で取り組めない理由の一端が中学時代にあるという可能性を絶対にないとは言い切れないという思いもある。再度、夏子は溜め息を吐いた。

「あんたはさ、自分で決めて野球を辞めたんでしょ。だったら、スパッと割りきって次に進むのが健康的な生き方なんじゃないの」

「次に進むも何も、特にやりたいことがないからな」

 一生見つからないかもしれない。これといって根拠はないもののそんな思い込みが胸の中にわだかまっている。

「無理にやりたいことを探さなくても良いかもしれないけど、何もしたいことがないのを理由にずっとだらだらし続けるのはやめな」

「そんなのおれの勝手だろ」

「あたしがムカつくからやめて」

 どうやら、動機は姉の私情だったらしい。春季はそう理解しつつも、心配させてしまっていることに対しての申し訳なさが湧かなくもなかった。

「家の中でずっとくさくさされてると、こっちも苛々してくるんだよね」

 うんざりしている。そんな感情を惜しげもなく込めた夏子の声音が、春季の頭に響いた。そして、この苛立ちもまた、ある意味当然のものだ、と春季は思う。

「もうこの家に住んでるのは、あたしとハルしかいないんだから。せめて、あたしの前ではもう少し元気でいてくんない」

 懇願する姉に対して、ごめん、と春季は反射的に声を漏らす。

「謝るくらいなら、しゃんとして。あたしはそういう子が好きなの」

 春季は少々むっとして、しゃんとするのもしないのもおれの勝手だろ、と言い返そうとしたあと、こうやって不貞腐れているのはガキそのものだな、と気付き、悪かったよ、と重い腰をあげる。

「よしよし。いい子だね」

 一転して機嫌の良さそうな夏子に、夏姉ちゃんは調子が良いな、と思い、伸びをした。

「じゃあ、少ししゃっきりしたとこで、海でも行こうか」

「おれ、受験生なんだけど」

 先程の姉の言葉を拾いあげると、夏子は、それはそれこれはこれだし、と言ってから、

「気分転換した方がいいでしょ」

 そんな風に結ぶ。春季自身もその必要性を感じて頷いた。途端に蝉の鳴き声がじりじりと耳に入り込んできて、世界に色が戻ってきた気がした。


「なんか二人きりになっちゃったけどさ」

 段々と潮の臭いが強くなっている最中、夏子の言葉が頭に響く。

「こんなこと言うとあれなんだけど、あたし、ちょっとだけほっとしてるんだよね」

 姉の言葉の意味を、春季は理解しかねた。否、頭が理解を拒んだというのが実情だったかもしれない。そんな春季に対して夏子は、長い間今の家に住んでてさと一人話を続ける。

「お父さんやお母さん、それに紅葉さんがいた時期もあるにはあったけど、けっこうな期間を四人だけで過ごしてたでしょ。もちろん、ハルは好きだし、秋穂も冬香も好きだったけど、時々、一緒に暮らしてて息が詰まったりもしてた」

 誰に聞かせているつもりかわからない独白は、延々と春季の頭の中に沁みこんでいく。寄せては返す波の音が段々と近付いてくる。すれ違う女子高生達の話し声と視線が向けられるのを感じた。

「秋穂は一見物分りが良さそうに振舞ってるけど、その実、相槌を打ちながらあたしの話をどうでも良さそうに聞いてる癖して一生懸命聞いてるふりしてるのがうざかったし、冬香は可愛くはあったけど、いつまで経ってもあたしに馴れようとしなかったのが時々ムカついたし。その点、ハルは文句は言うけどちゃんと向き合ってくれたから、残ってくれて良かったって思うよ」  

 夏子の他の姉妹に対する不満を聞いたのはこれが初めてだった。

「他の姉さんたちのことを悪く言わない方が良いと思う」

 陰口みたいだ。そんな感想を抱いてすぐ、そのものずばり陰口じゃないかと自嘲する。もっとも、聞かれる心配などもうどこにもないのだが。

「いいじゃん、これくらい。それこそあの娘らがいた頃は、一度も漏らさなかったんだから。むしろ、誉めて欲しいくらいだよ」

 隣で肩を竦めたような気配がする。

「だったら、直接言えば良かったじゃん。そっちの方が夏姉ちゃんっぽいし」

「あたしっぽいってなにさ、なんて言いたいところだけど、たしかにあんたの言う通りかも。でも、そうは見えなかったかもしれないけど、あたしなりにあの娘らに気を遣って暮らしてたんだよ。それに曲がりなりにも長女だし、妹たちに対する些細な不満くらいは呑み込んでしかるべきだって考えてた」

「考えてたってことは、今は違うの」

「そうだね。今は、一言くらいは言っても良かったかなって。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ後悔してるよ」

 ああ~あ。いかにもな感じで悔やんでいることを表明する夏子。直後に景色が開けて、日に焼けた昼の砂浜と青々とした海が目の前に広がった。

「だから、背中を押す前に、何か言っておけば良かったかなって」

 姉の言葉の意味を、春季はいまいち掴めずにいる。

「あんたがなんかの用事で父さんに呼び出された日に、冬香があんまりにも苛々してたもんだからさ。つい魔が差して、あんたが帰りに山の中にある丘に寄るって言ってったって噓を吹きこんだの。あの娘は、愚直なくらいあんたしか見えてないから簡単に信じこんで、嬉々として迎えに行ったんだと思う。出て行ったあの娘を見てあたしはちょっとだけ胸がすっとして、まあ雪もたくさん降ってるし、寒くなったら帰ってくるでしょ、ってたかをくくってたんだけど、結果は知っての通りでね」

 無言で立ち尽くす春季の横で、姉はなんでもなさそうに、案外あたし人を騙す才能があるのかもね、と笑う。

「秋穂の時は、いつもみたいにあたしの話を聞いてなさそうだったから、ちょっと珍しい食材を買ってきてほしいっていう体で、前に路面凍結してるのを見たことがあった道を通らないと遠回りになる店でのおつかいを頼んだの。あわよくば路面が凍っていてすってんころりんしてくれたらいい気味だな、ってガキみたいに思ってたんだけど、なんか打ち所が悪かったみたいでさ。ほんと、笑っちゃうよね」

 おかしげな夏子の声が頭の中に響く。茹りかけた体とは対照的に、春季の心は徐々に冷えていくのを感じた。

 どれだけの時間立ち尽くしたのか。春季はからからに渇いた喉を無理やりこじ開けた。

「夏姉ちゃん」

「なになに」

「今の話って、本当」

 間が空く。くすりと笑う夏子。

「ハルはどっちだと思う」

 実に楽しげな声が頭の中に響く。春季はぼんやりとした心地のまま、陽炎で歪んだ海景を見つめ、少しずつ目蓋を閉じていった。

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