春季が目蓋を開ければ、眼前をひらひらと白い蝶が飛び回っていた。これだけの陽気だとどうにも眠くなって仕方がないなと大あくびをする。

 陽気に誘われて、一人家を抜け出して散歩に出たはいいものの、すぐに歩く気もなくなり、ちょうど良さそうな大木に背を預けてじっとしていた。目の前にあるタンポポ畑の上にも何匹かの蝶々が飛び回っている。今年も春が来たな、という実感を深めつつも、春季の心は今現在の陽気のような温かさを持ち合わせてはいない。ただただ、ぼんやりと目の前にある春らしい景色を見つめ続けるのみだった。時折体を蟻が這ったりするの放っておきつつも、依然として離れていかない白い蝶の軌道を追っていく。

「こんなところにいたんだ、春季くん」

 聞き覚えのある声に顔をあげると、義母の一人である紅葉が寂しげな笑みを浮かべ立っている。長い髪に黒い着物がとてもよく映えていた。

「こんにちは、紅葉さん。実家の方でなにかありましたか」

 ゆっくり立ちあがり尋ねかければ、そうじゃないのと落ち着いた調子で口にする義母。

「春季くんが家から急にいなくなったから、ちょっと個人的に気になって」

 その口ぶりに、春季は少々軽率だったかもしれない、と自らの行動を悔いる。

「ちょっと、散歩に行こうと思っただけです。そしたら、なんかちょっと転寝しちゃったみたいで」

「そうなんだ。今日は温かいしね」

 春季の言に頷いてみせつつも、塗り固められたように見える笑みにはどことなく神経質そうなところが見受けられた。その振る舞いもまた、先日あったことを考えれば当然なのかもしれない。

「私も、隣、いいかな」

「ええ」

 短く応じて、寄りかかっているところから少し横にずれ新たな場所を作る。紅葉は、ありがとうと口にしてから腰かけようとした。

「着物、汚れませんかね」

 今更な指摘に対して、義母は、大丈夫よ、と笑う。

「むしろ、少し汚れるくらいでちょうどいいのかもしれないし」

 それはどういうことですか。聞く前に紅葉は躊躇いなさげな動作で腰を下ろした。それと同時に、おそらく先程までと同じ白い蝶が義母の頭部の周辺を舞いはじめている。そのまま紅葉は黙り込んでしまい、春季もまた何かを話す気分になれず、少々気まずくなった。どうにかしてその感情を紛らわせようと持ってきた鞄の中を探っていると、薄汚れた野球ボールが出てくる。

「春季くんはまだ野球を続けているの」

 ボールが見えたせいか、唐突にそんなことを問いかけてくる義母に、春季は少し迷ってから首を横に振った。

「遊び程度でなら一人で球を投げたりもしますけど、もう、昔みたいにちゃんとやってはいないっす」

「そう。それは残念ね」

 優しげな声音は、それでいて語尾に機械じみた素っ気なさがある。

「あの娘も残念がってたわね」

 水を向けられた事柄は春季が世界で一番実感しているところだった。表面上は、やりたいことをやればいいと言ってくれてはいたものの、その実、誰よりも弟が再び白球を手にすることを望んでいたのは疑いようもない。

「あなたの前では姉として振る舞っていたけど、昔からあの娘はとても内気だったから。そんなあの娘にとって、野球をしている春季くんはヒーローだったの。私にもよく聞かせてくれたわ」

 実際、義母に自慢をしている現場には出くわさなかったものの、口にされたようなことは容易く想像できる。それ以上に、面と向かって誉めてくれたことの方が多かったかもしれないが。

「ねぇ、春季くん」

 背中に思い切り体重をかけながら紅葉が無機質な目線を向けてくる。思わず春季は体を強張らせ、なんですかと尋ね返した。

「なんで、野球をやめちゃったの」

 意味のない質問だ。耳にした瞬間に春季は思う。同時に元々低い温度を保っていた心がより冷えていくのを感じた。

「今更、そんなことどうでもいいじゃないっすか」

「どうでもよくないから聞いているのよ」

 流そうとする春季の声を、静かな義母の言の葉が縫いとめる。穏やかなようでいて決して無視できず、そのまま見つめ合った。視界の端にはおそらく、先程と同じ蝶々が飛び回っていた。程なくして春季は溜め息を吐く。

「意味がないな、って思ったからっすよ」

「意味がない」

 よくわからないというような戸惑いを露にしつつ、その先を促してくる義母。この時点で既に春季はうんざりとしていたものの、義母もまた引き下がりそうにないので、渋々といった体で口を開く。

「中学校の三年間、やれるだけやってみて、おれではてっぺんがとれないってわかっちゃったので」

 この上なく情けない敗北宣言。実際に言ったのは初めてだったかもしれない。

「そんなの、やってみないとわからないじゃない。これからもずっと続けていれば」

「わかるっすよ。やるだけやてってみて、だした結論です」

 無責任な義母の希望的観測を切って捨てる。これからずっと続けていれば、誰よりも上手く強くなれる。そんな甘っちょろい願望に縋り、多くの時間を投げ捨ててしまった。

「けど、たった三年よね。だったら」

「たった三年でも、見えてくるものはあるんすよ」

 たった三年という言葉に対して、抱えている諸々の憤りが膨れあがりそうになったものの抑えこむ。実際、紅葉の言葉もまた真理であった。がたがた行ったところで、夢を諦めたという点において変わりはないのだから。

「楽しむだけでもいいから続けようと思わなくもなかったっすけど、てっぺんがとれないとわかってだらだらと続けようという気には最後までなれなくて。だから、すっぱり辞めました」

 辞めてから二年と少し。いまだに敗北感は胸の奥に澱のように残っている。だからといって、あの場所に戻ろうとは思わない。義母の表情はいつの間にか苦笑いに移り変わっている。

「野球のてっぺんってそもそもなに。プロ野球選手とか、大リーガー。それともシーズン最高成績とか日本シリーズとかワールドシリーズのMVPとか」

「てっぺんはてっぺんです。とにかく一番になりたかったんです」

 そして春季は今世でそのてっぺんをとるのが不可能だと察した。むしろ、費やした期間を思えば、遅すぎる判断だったかもしれない。そして、新たな目標を見つけるでもなく、今日この日まで、だらだらとした日常を送り続け、正直悪くないと思っていた。

「そんな、よくわからないこだわりで、あなたはあの娘を苦しませたの」

 顔に罅が入ったみたいだ。どことなく歪んだ紅葉の表情にそんな感想を抱く。

「そうなのかもしれません」

 勝手にあっちが期待しただけだ。一瞬、そんな言葉が春季の頭の中に浮かびかけたが、すぐさま握り潰す。相手の憧れを春季もひしひしと感じていたし、現に辞める前はなんとかその期待に応えようとしていて、辞めたあとも今日にいたるまで小さくない罪悪感を抱えた。共犯のようなものだったにもかかわらず切り捨てるのは色んな意味正しくない。

「そうなのかもしれませんってあなたねぇ」

 いつの間にか、紅葉は声を荒げながら両肩に掴みかかってきている。春季は着ているシャツ越しに鈍い痛みを覚えたものの、黙って相手の行為を受けいれていた。

「あなたがもっとしっかりしていたら。あの娘は、あの娘は」

 喉を嗄らすような叫びのあと、義母は春季の胸にもたれかかって嗚咽する。春季は相も変わらず口を開かないまま、ぼんやりと視線を逸らす。既に先程までいた白い蝶々の姿はなく、タンポポ畑は二人と無関係に広がっていた。

 

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