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 目を開ければ紅い空が広がっている。いつにないその近さに、そう言えば屋上にいたんだっけと思い出した。

「もう、ハル君。こんなところで寝てると、風邪引くよ」

 その声に春季が顔をあげると、秋穂が白いブラウスに、似たような色合いのスカートを合わせた姿で見下ろしている。

「どしたの、秋姉さん」

「ハル君がどこにいるかクラスに残ってる子に聞いたら、ここだって言ってたから」

「そうじゃなくて。なんで、高校にいるの」

 既に秋穂は今年の春から晴れて大学生になり、もうこの高校生からは卒業している。かといって、秋の文化祭までまだ大分日があった。となれば、かつて所属していた部の後輩に文化祭準備に絡んだ差し入れでもしにきたのだろうか。

「たまたま近くに寄ったから、せっかくだしハル君と帰れないかなって思って」

 どことなくもじもじするように顔を紅潮させながら、二つ年上の姉はそう説明する。秋姉さんの大学はけっこう近くにあるしそういうこともあるだろう、と春季は一応納得しつつも、この姉の行動に少々の疑問を抱いた。

「話はわかったけど、だったら連絡くれればいいのに」

 今日はたまたま春季が校舎の屋上で寝ていたからいいものの、下手をすればまったく別の場所をふらふらしていてすれ違っていたかもしれない。そんな注意も兼ねて切り返すと、秋穂は、

「連絡したんだけど返事がなかったから、いたら一緒に帰るくらいでもいいかなって思って、高校にお邪魔させてもらってたの」

 首に下げられた四角い入校許可証を右手で示しつつ、空いた方の手に持った機器の液晶画面を見せる。そこにはたしかに春季への連絡の文面があった。

 いや、来てないだろう。そう思い、ポケットからスマホを取りだし確認すると、少し前に秋穂からの連絡が入っていた。どうやら、寝過ごしていたらしい。

「悪い。けっこうしっかり寝てたみたいで」

「ううん、それはいいの。もしかしたら、ホームルームが長引いてるのかもしれないかなって思ってたから」

 そう口にしつつも、秋穂はどこか気遣わしげにしゃがみこむ。春季は立ちがある機会を逸してしまったなとぼんやり思う。

「ハル君、最近、疲れてるでしょ」

「いや、そんなことないけど」

 否定してすぐ、最近やけに眠いな、と思い当たった。秋穂はなるべくスカートに皺ができないようにと座る姿勢をとると、布越しに自らの太ももをポンポンと叩いてみせる。春季はやや恥ずかしさを感じながらも、手で叩かれたところに頭を乗せた。

「ダメだよ、嘘を吐いちゃ。お姉ちゃんはなんでもお見通しなんだから」

「お見通しというには、その目は節穴過ぎるって。おれ、疲れてないし」

「またそういうことを言う」

 不満気な声を漏らしながら、二つ年上の姉は弟の髪を優しく撫でる。そうされると、ほとんど引っこみかけていた眠気がまた舞い戻ってきそうになった。おまけに、細く眩しい日暮れ時の光が目に沁みたのもあり、自然と目を閉じる。

「ハル君が疲れるのもわかるよ。春から色々あったしね」

 どこか言いにくそうに、それでいてはっきりとした秋穂の声に、春季はなにも答えず目を瞑ったままでいた。元より、答えを求めていないのか二つ年上の姉は、そりゃへとへとになるよね、と一人納得するように言葉を重ねてから、

「家から一人いなくなったあと、私もハル君も必死だったから」

 自らに言い聞かせるようにそう口にしてみせる。春季は尚も答える気にならず、寝たふりよろしく目を閉じたままでいた。その際、日の光が目蓋の裏にある肌色を紅く照らす。

「だから、お姉ちゃんとしてはちょっとくらい落ち着いてくれていいと思うんだ。いつも、一生懸命、やってくれるんだから、もっとゆっくりしてくれると嬉しいかなって」

 だからこうしてゆっくりしているんだよ。心の中でそんな風に応じながらも、それだけで癒しきれないものが胸の内にあるのを春季も自覚している。

「ハル君、寝ちゃったの」

 少し不安げに話しかけてくる秋穂。このまま無言でい続けようかと考えもしたものの、結局春季は目蓋を開く。途端に、姉ははにかむように微笑んだ。

「起きてるよ」

「だったら、お姉ちゃんとちゃんとお話してほしいなぁ」

 文句を口にする姉は、それでいてどこか楽しそうですらある。

「そういう気分じゃなかったんだよ」

「ふふふ。そうなんだ」

 言いながら、髪を撫でてくる秋穂の柔らかい掌。

「子ども扱いすんなよ」

「何言ってるの。ハル君は子どもだよ。たぶん、私もね」

 何の衒いもなさそうに告げる姉。下から見上げる顔は、これまで見てきた秋穂の表情の中でも、とりわけ大人びている気がして、春季はなぜだか引け目のようなものを感じる。

 ふと、秋穂の顔の前に一匹の赤とんぼが飛びこんできた。この姉は、虫がやってくる度にぎゃーぎゃー騒ぐ夏子や無言で逃げる冬香と異なり、とりたてて気にしないたちなのもあってか、静かに二三度瞬きしたあと、

「ねぇ、ボク。どこから来たの」

 暢気に尋ねかける。当然、答えは帰ってこず、程なくしてとんぼは春季の視界の中から消えた。

「あら残念。もう少しお話したかったのに」

「虫と喋れるわけ」

 いきなり飛び出してきた電波かつファンシーな発言に食いつけば、姉は意味深に笑ってみせてから、

「さあ、どうでしょう」

 などと得意げに言う。十中八九、冗談だろう、とわかりつつも、このふわふわした姉のことだから、喋れてもおかしくない、という気がしないでもない。

「そう言えば、ハル君と冬香ちゃんと最初に会った時も、オニヤンマさんとお喋りしてた気がするよ。というよりも、道案内してもらっていたかも」

 春季が半ば信じかけているのを面白がっているのか、ついにはそんなことまで言い出す姉。胡散臭さが増してきたなと感じつつも、たしかに秋姉さんはオニヤンマのあとにやってきたな、という記憶がある。

「ハル君は私と初めて会った時のことっておぼえてるかな。でも、あの時は、ハル君も冬香ちゃんも小さかったからね」

「ぼんやりとだけど」

「そっかそっか。あの日も、今日みたいに真っ赤な空だったよね」

 どこか遠くを見るような目を春季に向ける姉。そうだったような気がする、と答えながら、後ろから冬香に抱きつかれていたことを思い出している。たしか近所の友人たちと別れたあと、双子の姉に帰ろうよとせがまれていたにもかかわらず、もう少し残っていくとダダを捏ねていた。細かい経緯はおぼろげであるが、たしか全力で投げた球をガキ大将にめった打ちにされて悔しかったとかそんな風なことだった気がする。そうやって、当時はまだあった空き地で壁に向かって何度も球を投げている中、とんぼの大群に行き逢い、虫嫌いな冬香に壁扱いされた。この頃の冬香は、とにかく気弱な春季の後ろに常に隠れているような女の子で、今とは違う意味で、少し鬱陶しかったおぼえがある。とにもかくにも、その群れの中に、唐突に一匹の大きなオニヤンマが侵入してきて、その後ろについてくるようにして赤いワンピース姿の秋穂がゆっくりと歩いてきたのだ。

「おれ、秋姉さんが来るなんて聞かされてなかったよ」

「うん、そうらしいね。私は先に知ってたから、今日からお姉ちゃんになる秋穂です、なんて言ったっけ。すごく楽しみだったし、ハル君はあの時からカッコよかったし、冬香ちゃんはハムスターみたいで可愛かったから」

「ハムスター、ね」

「うん、ハムスター。ちょっと嫌な話だけど、こっちに来る前に飼っていた子供のハムスターが亡くなっていたから、もしかして生まれ変わりなんじゃないのかな、なんて最初は思ったんだよね」

 冬香ちゃん的にはいい迷惑かもしれないけどね。たしかに嫌がりそうだな、と春季は思いつつ、秋穂が冬香に向ける感情の一端が見えた気がした。

「あの時は驚いたよね。ハル君は変なものを見るような目で私のことを見てたし、冬香ちゃんにいたっては泣き出しちゃったし」

「昔のフユ姉はなんかあるとすぐ泣いてたしなぁ」

 最近はあまり泣かなくなった分、喜怒哀楽をあまり表に出さなくなった。実際、春季にも双子の姉の感情が上手く掴めないことが多い。

「そうらしいね。けど、泣かしたくはなかったなって」

 秋穂の顔に少々の陰りが見受けられ、そんなに気にしないでもいいのにと春季は思う。

「けど、やっぱりあの日に二人と会えて良かったなと思ってる。特に、ハル君はちゃんと話したら、笑ってくれたし。それがすごく嬉しかったんだよね」

「そっか」

 実際、おれも嬉しかったんだろう。おぼろげに感じたことを繋ぎあわせた春季は、そんな結論が導きだす。当時の秋穂は、振り返れば年相応に幼くはあったものの、より幼かった春季にしてみればとても大人びて見えた。その余裕に満ち溢れ、相手を包みこもうとするような穏やかな表情に、春季はまだ見ぬ先の先にある大人の姿を見出し、生まれてはじめての憧れのようなものを抱くにいたった。

「それから少しして夏子姉さんもやってきて。うちの中がにぎやかになったよね」

 しみじみと言葉を紡ぐ秋穂。依然として微笑みを称えてこそいたものの、その奥には隠せない陰りのようなものが見受けられた。そして、この二つ年上の姉の気持ちの一端を、春季もまた共有している。

「ないものねだりしても仕方ないのにね」

 こころなしか、頭を撫でる手つきが乱暴になるのを感じつつ、春季もまた、胸の中にある割り切れない思いを実感させられる。それは今、秋穂と共有している感情だけに留まらず、いまだにどこか諦めきれていない漠然とした夢のようなものと重なってもいく。こころなしか、野球部の守備練習とおぼしき声が耳に入ってきた。

 ままならねぇな。そんなことを思いつつ、依然として微笑み続ける秋穂を見上げたままでいる。徐々に暗い絵の具が混じりつつある焼けた空の上を、再び赤とんぼが横切っていくのが目に入るのと同時に、疲れが押し寄せて再び目蓋を閉じた。

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