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 我に返るように目を開けば、ゆらゆら揺れたなびく細い煙が見えた。直後に自分がどのような立場に置かれているのかを思い出した春季はゆっくりと踵を返す。真正面の道の両脇には幾重も満開の桜が咲きほこっていた。

 春なのに、ちっとも嬉しくないな。毎年、自らの名前の入った季節となれば、なんとはなしに歓びが満ち溢れたものだが、今はとてもではないがそんな気分にはなれない。そうしている間も、足は他の体の部分から独立したようにして着実に家路を一歩一歩踏みしめていっている。たとえ、なにが起ころうともすべてはいつも通りの中に組みこまれてしまうのだというような感じに嫌気が差しそうだったが、仮に抗ったとしてもなんにもならないのは明らかだった。いつも通りに戻らなくてはならないのだと、自らに言い聞かせる。

 足元には既に散った花弁や、のたのたと這う芋虫、ひらひらと舞う揚羽蝶。それらの生き物や残骸は、なにかの象徴のようでもあったし、あるいは何にも関係ないようでもあったが、考えるのが億劫でただただ一つ一つのそのものとしか受けとれず、先を急いだ。

「春ちゃん」

 後ろから声をかけて振り向けば、黒い薄手のドレスを着た義母が立っている。波打った長い髪の下に隠れた顔からは、普段会う際に見せる満ち溢れんばかりの生気がうかがえず、ただただ寂しそうだった。

「早苗さん」

 名を呼ぶと同時に、義母は薄く笑う。

「そろそろ、お母さんって呼んでくれてもいいんだよ」

「遠慮しておきます」

 もはや、とりたててこだわりはないはずだ。そう思っているにもかかわらず、春季の口からはにべのない言葉が出てくる。早苗は肩を竦めながら、ざんねん、と呟いた。

「こういう時くらいは呼んでくれると思ったんだけどな」

「気分じゃないんで」

 応じつつも、もしも義母の言い分が本音だったとすれば、こういった機会に付けこむ振る舞いそのものに嫌悪感をおぼえた。

「ごめんごめん、冗談。全然、面白くなかったよね」

 まるで心の中でも読んだように、早苗は言い訳を口にする。途端に、さまよいはじめていた負の感情が行き場を失い、そっすか、と短く漏らすことになった。そんな春季の態度をどう思ったのか、義母は先んじて歩きだす。おそらく、帰ろうとしている場所は一緒であるため、春季もまた後に続いた。桜並木の枝々からは、はらりはらりと花弁が舞い落ちている。

「雪みたいだね」

 春季は一瞬、何を言われたのかわからなかったものの、数秒を置いて散る花のことだろうと察した。

「そうかもしれないっすね」

 春季の同意に応えないまま早苗は、あの娘はさぁ、と独り言のようにして話しだす。

「雪が降ったあとは、犬みたいに駆け回って何度も転ぶんだけど、それでも目を赤くしながらすごく楽しそうに笑ってるんだよね。いや、我が娘ながら、元気を絵に描いたみたいな娘だったね、ほんと」

 ちょうど隣に並んだ春季は、義母の弛んだ口元と虚ろな目の両方を見ることとなった。声にいたっては弾みながら震えている。

「だから、たぶん。たぶんだけど、あの娘は今もどこかで元気に駆け回ってるんだよ。夢中になったらただただまっすぐいっちゃうから、飽きるまでずっと駆け回っているに違いないんだよ」

 そう告げて振り向いた早苗は、ねえそうでしょ、と笑いかけてきていた。春季は一瞬、どう答えたものかと悩んだものの、決定的な何かを口にしてしまうのは躊躇われ、そうかもしれないっすね、とお茶を濁す。義母は一人でうんうんと頷いてみせてから、

「春ちゃんもそう思ってるんだよね。そう、思ってくれるんだね」

 ほっと胸を撫で下ろすようにして息を吐き出した。春季はついにいたたまれなくなり、天を仰ぐ。青い空には薄く白く細い雲が幾筋か走っていた。

「どこ行ってるのかな。外国、空、宇宙。どこもありそうだよね」

 隣にいる早苗が空を見上げている気配を感じつつ、頭の中で細い雲と先程見ていた煙が重なっていくのがわかる。空の果てはどうなっているのだろう。義母の口にしたことに釣られたのか、ふとそんなことを思ってから、目を閉じた。

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