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「ハル君。そろそろ起きて」

 聞きおぼえのある声を耳にした春季が机から身を起こし目を開けると、腰の辺りまで伸びた長い髪を押さえる秋穂の姿がある。衣替えを終えたばかりで黒い長袖のセーラー服を着た二つ年上の姉の姿は、春季の目から見てもえらく様になっていた。

「秋姉さんは、いつからここにいんの」

「えっと、三十分前くらいかな。ハル君、気持ち良さそうに寝てたから、起こすのも悪いかなって」

 どうやらけっこうな時間、居眠りする姿を見られていたらしい。途端に照れ臭くなり、窓の外へと視線を逸らせば、茜色に染まった空とその下に映える濃く色づいた紅葉が目に飛びこんでくる。もう秋か、という感慨が胸の中に押し寄せてきた。

「ハル君が眠いなら、お姉ちゃんはもう少し、ここでぼんやりとしててもいいけど」

「いや、行こう」

 目を擦りながら席を立つ春季。この二つ年上の姉のただただ優しい視線を好ましく思うと同時に、居心地の悪さを覚えてもいた。

「本当にいいの」

「うん、大丈夫だから」

 そう告げて、鞄を手にして姉に背を向ける。秋穂は、待ってよハル君、とどことなく落ち着かなさそうな足取りで着いてきた。

 教室の出入り口をくぐり廊下へ出ると、窓越しに焼けた空の色がより色濃く降り注いできた。程なくして、隣に並んだ秋穂にも同様の光が降り注ぎ、その身体を夕焼け色に染めていく。春季と目を合わせた姉はどこかぼんやりと見つめ返してきていたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「綺麗だね、ハル君」

 秋穂の言わんとしているところを春季はおおむね理解してたものの、咄嗟の出来事だったせいか無粋にも、なにが、と尋ね返してしまう。二つ年上の姉は、表情を変えないまま、春季の身体を指差してきた。

「ハル君、夕焼け色になってるんだもの」

「姉さんだって同じだよ」

 今度はすぐさま返した言葉に、秋穂は自らの身体を見下ろし、ほんとだ、と呟く。

「ハル君と同じだね」

「うん、おんなじ」

 言い合ってから、自然と二人で笑う。立ち止まっている間、遠くから居残っている体育会系生徒たちとおぼしき声や吹奏楽の演奏などが聞こえてきていたものの、春季と秋穂の楽しげな声に掻き消されていた。そうやっている内に、校舎内に忍び込んでくる光は、次第に紫色へと傾いていく。

「そろそろ、帰ろっか」

「うん」

 春季は秋穂の提案に頷いてから、一歩踏みだした。それとほぼ同時に姉の方も歩きはじめている。

「ハル君、最近どう」

「なに。藪から棒に」

「お姉ちゃんはいつもハル君のことが気になってるんだよ」

 茶化すでもなく、少しだけ照れ臭そうに尋ねてくる姉に、春季はどう答えるべきか悩んだあと、

「なんもない。いつも通りだよ」

 答えにもなってない答えを返す。

「野球部には行ってないの」

 すぐさま飛びだしてきた話題に、春季は一瞬、頭が真っ白になったものの、すぐに我に返った。

「行ってないよ。っていうか入ってもない」

 にべもなく言い切る春季に、秋穂は、そっか、と寂しげに口にする。

「野球、嫌いになっちゃったの」

「どうかな」

 嫌いにはなっていない、と春季は思おうとするものの、それが本心であるかどうか、やや心もとなかった。

「好きだったら、やったらいいんじゃないかなって思うよ」

 無責任な言葉だ、と春季は微かな苛立ちとともに思う。好きだけでどうにかなるものではないのだと心の中で反論しながらも、口にしてしまうのはより情けない気がして、今はやめとく、と言うだけに留めた。

「そっか。気がすすまないんだったら仕方ないね」

 二つ年上の姉はそう答えてから、ほんの少しだけ残念そうに笑みを浮かべてみせる。そんな秋穂の表情を見て、春季はわずかばかりの罪悪感をおぼえはするものの、自分の意見を翻すつもりはなかった。

 そうこうしているうちに二人は下駄箱へと辿り着いた。

「じゃあ、すぐあとで」

 学年の違いで靴の置いてある場所が違うため、先んじて別れようとする春季に、秋穂が、待って、と声をかけてくる。

「なに、秋姉さん」

 秋穂は長い髪の先っぽにどこか不安げに触れていたが、やがて決意を固めたように春季をまっすぐ見据えた。

「夏子姉さんと冬香ちゃんがどう思っているかは知らないけど、私はハル君が誰よりも楽しくやれるよう応援してるから。とにかく、自分の心に嘘を吐かないで、好きなことをやってくれればいいと思うよ。それだけ」

 そう締めくくると同時に、小走りで自らの学年の下駄箱へと向かっていく。春季は姉の後ろ姿を見送ったあと、随分、勝手なことを言ってくれるな、と苦笑いをしつつも、その一方でたしかに元気づけられていると認めてもいた。春季本人の実感としてはもう二度と野球をやることはないと思ってはいるものの、秋穂はそれ以外のやりたいことも応援してくれているらしいのだから、じっくりゆっくり、この高校生活で好きなものを見つけらればいいな、とぼんやり頭に浮かべ、外を見やる。空はわずかに夜の気配をはらみはじめていたものの、相も変わらず焼けたような色合いが残っていた。ふとした思い付きとともに、目を瞑っていても同じ色合いだろうかと目蓋を閉じると、薄肌色の幕越しではあったもののたしかな明るさがある。

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