春夏秋冬
ムラサキハルカ
一
土蔵で寝転がっている春季の耳に、蝉の鳴き声に混じってどんどんという音が届く。どうやら戸が叩かれているらしいと察してすぐ、木が軋む悲鳴とともに姉の夏子が入りこんできた。オレンジのタンクトップにベージュのショートパンツを合わせた姿は、短い髪と特徴的な八重歯もあいまって、春季に活発な印象を与える。
「やぁやぁ」
姉はそんな声とともに早足で近寄ってきた。春季は仰向けになったまま、目線だけを姉に注いだ。
「また、こんなとこに籠っちゃって。その内、干からびちゃうよ」
「ほっとけって」
春季の言葉を無視するようにして、姉は床に座りこむ。
「そんなとこに座ったら、姉ちゃんの尻が砂まみれになるって」
「それを言ったら、あんたの背中なんてもう手遅れじゃんか」
そうして夏子は臀部を気にするそぶりも見せずに、座ったまま天井を見上げた。春季もまた、姉の視線を追えば、天窓からの日に曝された蜘蛛の巣を見つける。主はいない。
「こんなところにいないで、海にでも行こうよ。お日様も気持ちいいし」
自転車を飛ばせばすぐのところにある海へ行こうと提案する夏子に、春季は土の床により体重をかけて寝そべることで応じる。
「熱いし、日も焼けるし、嫌だなぁ」
そして、ひたすら外に連れ出そうとしてくる姉に、緩やかな反論をしてみせる。実のところ、行ってもいいかな、という気持ちもなくはなかったが、日差しの強さや起き上がることの億劫さの方がまさっていてどうにも気が乗りきらない。夏子はあからさまに頬を膨らませたあと、春季と同じように寝転がる。
「だから、姉ちゃん。それじゃあ、背中が」
「あんたも汚れてるんだから今更でしょ。それにたぶん、洗濯するのもあんたかあたしなんだし」
言い切ったあと、思い切り目を瞑る姉。その横顔を見つめたまま、春季は再び天井を見上げ、窓からの日の光の眩しさに目を細める。やはり、今は外に出たくない、という気持ちがより増す中、こころなしか蝉の鳴き声が大きくなっていった。ふと、頬や背中から温い滴が伝ってくるのを感じる。これは家の中に帰って扇風機の前にでも移動した方がいいかもしれない。そう思い、春季が重い腰を起こしかけたところで、がっしりと腕を掴まれる。見れば、姉が八重歯をのぞかせ微笑んでいた。
「姉ちゃん」
「聞かなくてもわかるよ、うんうん。とうとう海に行こうっていうんだね。さすがはハル。誰よりも話がわかるやつだわ」
一人納得するように頷く姉は、勝手に話を進めようとする。春季は握られている腕を振り払おうとするものの、思いのほか夏子の腕力が強くて、なかなか剥がせない。
「なにしようか。とりあえず、遠泳は当然として、ビーチバレーとか。あっ、冷蔵庫にスイカあったし、スイカ割りも」
「そのスイカ、誰が運ぶわけ」
「そりゃ、ハルだよ。姉ちゃん、箸も持てないくらい繊細なんだから」
この握力でそれは通らないんじゃないの。そう思いつつも、夏子の笑顔からある種の圧力を感じたのもあり、わかったよ、と身を起こす。途端に、姉の空いている方の手が春季の頭の上を優しく撫でた。
「熱いって」
「うりうり。照れるな照れるな。ハルも嬉しいでしょ」
自分の言葉をまったく疑っていない姉のことを、良い性格だと思いつつも、その実、春季も別段、嫌というほどでもなく、静かに受けいれる。
「けど、あたしだけハルを独り占めするのももったいないねぇ。秋穂と冬香にも声をかけておこうか」
「いいんじゃないの」
夏子にとっての妹である二つの名に対して、一番下っ端であるところの春季は控え目に同意を示した。
「ありゃ、そんなに嬉しくなかったりする」
「そういうわけじゃないけど」
「ははぁん」
春季の煮え切らない態度に、夏子はなにを思ったのか、顔を歪めて笑う。
「さては、ハル。お姉ちゃんと二人きりが良いんでしょ」
「そんなんじゃないよ」
「わかってるわかってる。あたしは全部わかってるから。そんな照れ隠ししないでもいいんだよ」
そんなこと言って、体を押しつけてきて頬ずりをしてくる夏子。
「熱いってば」
「だから、照れるなって。ほらほら、嬉しいでしょ」
最初のうちは春季も引き剥がそうとしたものの、夏子の両腕の腕力と思いこみの強さに根負けし、されるがままになる。昔から、夏子は春季の話をなかなか聞いてくれない。とはいえ、姉自身が持ち合わせている好意は疑いようがないくらい前面に出ているため、今も昔も悪く思えないでいる。ただ、現時点で物理的に息苦しくなりつつあったが。
「姉ちゃん」
「うん、なになに。もっと抱きしめて欲しい感じ」
「海、行くんでしょ。そろそろ」
「そう言えば、そういう話だったね。けど、もうちょっとこうしていても罰は当たらないよね」
「そろそろ暑くて死にそうなんだけど」
「そっか。それは大変だね。けど、それはそれとしてもう少し」
結局、徐々に力強さを増す姉の両腕に捕らえられたまま数十分、セミの鳴き声を耳にし続けた春季は海に行く前に精も魂も尽き果てていた。それとは対照的により元気になった夏子は、遠泳も、砂の城作りも、スイカ割りも実に楽しげにこなしてみせた。
なんとも慌ただしい一日が過ぎ去ったあと、春季はふらふら倒れこむようにブランケットの下に潜りこんでから、ぎゅっと目を閉じた。
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