3 「狂気のための愛と死」(4)

『ナルオミ、ここにいて。ぼくと一緒に、ここに』

 ただそばに在ることを乞われたのは、初めてだった。それだけで、この生は報われた。

 ナルオミは以前にも増して、自分の体調に執着しなくなった。少しでもアキと共にある時間を増やすため、そのほかの仕事を鬼のようにこなしていた。どんなに疲れていても、どんなに深夜であっても、アキの眠るベッドへもぐりこめば、それだけであらゆる苦しみから解放された。

 アキ、と呼べば見つめてくる黒い瞳を、すぐそばで見つめ返す。そこに映る自分を見遣って、生きていることを強く実感した。

 「ここ」に生きているのだと。

 この瞳に映り続けたい。それがナルオミの願いであり、今のすべてだった。

 アキの冷たい手が、ナルオミの髪を撫でる。その手をとって、ナルオミは口元に寄せた。

「きれいな手だ」

「かあさんの手は、もっとやわらかくてきれいだった」

「ピアノのせいでしょう」

「それならぼくもやったのに」

「へえ、意外」

「そう言うと思った」

 アキは眉を寄せ、唇をとがらせた。不意に見せる何気ない仕草には、あどけない少女が住んでいる。

 ナルオミの渇いた時間が、飾らないアキの心で湿りを帯びる。

「ここにピアノを置きますか」

「え」

 驚いた黒い瞳に、都会で見上げる明るい夜空の、星の瞬きほどの喜びが見えた。その素直さに、かえってナルオミが息を呑んだ。これまで接したことのないアキの深部に触れた気がした。

「どんなピアノでも取り寄せます」

 ナルオミの言葉にアキの口が、じゃあ、とひらきかける。だがアキは唇を噛んで小さく首を振った。

「……いや、やっぱりいい。いらない」

 繋いだ手に力を込めて、アキは毛布の中に頭を沈めた。ナルオミはなぜとは問わなかった。

「わかりました」

 手の中に握りこんで束になったアキの指を吸って、指と指の間に舌を差し入れる。手首から肘にかけて痕が残るほど口づけてもまだ足りず、汗が滲む腋を舐めて首筋に咬みついた。舌に広がるアキのにおいを確かめながら、互いの両手を縫い合わせて、潮が満ちていくように徐々に狂わせていく。

 どんなに夜を重ねても、壊れそうなほど体を通わせても、アキはいつだって美しく映えた。泣き出してしまいそうな、溢れそうな瞳で見上げられ、ナルオミは背中が燃えるようだった。

 犯しがたく散ることのない花を咲かせる。彼女はいつまでも失われない処女だ。

 隅に置かれた照明の薄明かりを受けて、アキの白い肢体が愉悦に染まる。わずかに濃く映るのは、ナルオミの痕だった。

「アキ」

 名を呼べば、彼女は必ず目を細めた。それが喜びか悦びか、ナルオミにはわからない。だが、彼女がよろこんでくれるなら、満たされてくれるのなら、それだけでナルオミも救われた。

 少年と少女の間をたゆたいながら、アキの指がナルオミの十字架に触れる。

「ナル、オミ」

 爪が傷のやわらかい部分を引っ掻いた。

「ぼくの、ぼくだけの十字架だ」

 引き攣れた皮膚をいとしげに眺め、やがてアキは涙を浮かべた。何度も十字架をなぞっては、声を殺して泣いた。

「ごめ……ね、ナルオミ」

「アキ?」

「大好きだから。おまえだけだから。それは、変わらないから」

 アキはナルオミに抱きついて体を入れ替え、馬乗りになった。不慣れながら懸命に実らせようとする姿がいじらしく、ナルオミは体を起こして抱きしめた。

 薄っぺらな背中を反らせ、アキはナルオミの腕の中で咲き誇る。普段は冷たいアキの体温が乱れて、ナルオミは忠義を貫いた。

 達しても離れようとしないで、アキはナルオミの首に抱きついた。額を重ねて、鼻先をすり寄せ、アキは触れるだけの口づけをした。それはアキからの初めての口づけだった。

「だからここにいて。もっと、ぼくを奪って」

 舌先を縒り合わせて、再び未開の花に還る。ナルオミは繋がりを解かずに、深い夜にもぐった。

 ナルオミにとっての「ここ」はアキだ。だが、アキにとっての「ここ」とは、一体どこを指すのか。

 ときおり睫毛を震わせるアキの寝顔を見つめていると、起こしてまで尋ねることはできなかった。

 ナルオミは残っていた仕事を片付けるため、アキの頬にキスを落として部屋を出た。

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