3 「狂気のための愛と死」(3)

 ナルオミはかたくなった彼女の手をほどき、指を絡めた。折れないように、壊さないように、けれども伝わるように握りしめる。

「おれを赦してくれますか」

 冷たかったアキの手が、少しずつ和らいでいくのがわかった。ナルオミは彼女の手を引き寄せ、自身の胸に刻まれた十字架へ押しつけた。

「おれはここにいても、いいんですか」

 懺悔のような問いかけに、アキは静かに頷いた。

「ぼくが命じたことだ」

「だったら、おれをあなたのところに縛りつけて」

 手の甲でアキの髪に触れ、耳を撫でる。腕を伸ばさねば届かない距離がもどかしく、ナルオミはアキを抱き寄せた。

「もっと強く、おれがほどけてしまわないように」

 寄り添いたい。もっとずっと近いところに侍りたい。息苦しいほどの距離で仕えていたい。そして彼女の手足に、すべてになりたい。

 抱きしめたアキの体は小さく、とても冷たかった。いつも薄着をするからだと、ナルオミは心中で愚痴をこぼす。だがこの冷たさこそがアキの体温だった。寒さに震えるなら、あたためればいい。それがナルオミに与えられた役割だ。

 すぐそばの耳朶を咬み、ぬくもりを伝えたくてシャツの下に手を伸ばす。じかに触れた彼女の背中は無駄がなく、いまだ筋肉を知らない少年のようだった。

 二人の間を隔てていたレコードの箱を投げ捨て、隙間を埋めるように口づける。重ねた唇は手指や背中に比べてひどくやわらかく、舌先はどこよりも熱かった。吸うだけでは足りず、噛み千切ってしまいたい衝動がこみ上げる。ナルオミは啄ばみながら息継ぎをして、そっと目をひらいた。アキの白く薄いまぶたに血管が透けて見える。もっと、もっと。アキのすべてを知りたい気持ちが脈打った。

 知れば知るほど、きっと鎖は強くなる。絡まって、もつれあって、境目がわからなくなるほど互いが食い込み、もう二度とほどけなくなる。そんな瞬間をナルオミは夢見た。

 アキを窓に押しつけて、口づけはやめないままで服を剥ぐ。晒布の結び目がわからず、手持ちのナイフで端を切った。花びらが音もなく散るように、はらりと胸元がひらく。あばらの浮いた胸に、恥じらいの乳房が息づいていた。頬のふくらみよりささやかだが、それは確かに女の目をしていた。

 そして、支配者の吐息をまとっていた。

 ナルオミは一息すら逃したくない思いで、アキの乳房に咬みついた。闇を知らない白い肌に、蹂躙の歯形が残る。アキの口から痛みとも悦びともつかない声が洩れた。そのたびに赦されて、囚われていく。

 これは、洗礼だ。

 ナルオミはその場に跪き、アキの下腹に抱きついた。肌に染みついた彼女のにおいは、雪のように清新で、薄氷のように凛としていた。熱や甘さのない、孤高のくすぐりだ。

 アキの肌に指を這わせ、柔肌の上に引かれた光と闇の境界線をなぞる。彼女が光と闇に塗り分けられているのではなく、彼女が光と闇を隔てているのだ。アキの持つ底知れない闇が、気高い光を生み出している。すべての色彩を持っている。それが彼女の白さだった。そして、それが彼女の脆さでもあった。

 指で撫でた境界線を舌で追いながら、彼女の吐き出す闇を呑む。黒い影だけなら、ナルオミにも抱えられる。

 寒さに震える小さな体は、北風に揺れる小枝のように頼りなかった。枝先に結んだ蕾を必死で守り、春の訪れをただ待つしかない。健気でいじらしい存在だ。いつまでも春など来なければいいと、ナルオミはいたずらに望んだ。

 体を近づけると、アキは声をこらえて目を瞑った。二人に合わせて振動する窓を嫌って、ナルオミは離れないままアキを抱えた。

 ナルオミが押しつけるばかりの一方的な繋がりのはずが、吐息が重なり、鼓動が共鳴し、視線が溶けて、やがて二人はひとつのかたまりになっていく。越えられない境界線を感じながら、その境目に互いの存在を確かめ合って、より深いところまで潜っていく。

『ナルオミ、ここにいて。ぼくと一緒に、ここに』

 アキのためなら、アキが望むならどこへでも行こう。アキがここから動けないと言うなら、ナルオミもずっとここにいよう。繰り返す余地なく、留まり続けたい。アキがいるなら、アキが。

「アキ」

 抱えきれない願いが吐息のようにこぼれた。アキはナルオミの腕の中で目を細めた。

「呼んで、もっと呼んで。ぼくの名前」

「アキ」

「もっと」

「アキ、アキ、アキ」

「ナルオミ……!」

 アキはナルオミの髪にしがみついて、悲鳴を噛み殺した。ナルオミはレコードの音量を最大にまで上げて、アキの唇を口づけで塞いだ。

 声を奪って、眼差しを奪って、自由を奪って、奪った分だけ捧げたい。

「アキ、あなたのために生きたい」

 唇を咬みあって、吐息を言葉にする。

「もっと掴んでいて、おれをここに縛りつけて。がんじがらめになって、おれがどこへも行かないように、行けないように。自由なんて」

「おまえはぼくだけの男だ。ここから離れることは許さない。そのときはおまえの死だと思え」

「死なない、おれは。絶対に」

 恋情でも愛でもない。これは契りだ。それも男女の契りではない、支配者と従属者の契りだ。

「離さない……、離れるな、ナルオミ」

「アキ、呼ばせて。アキ」

 すべての時間と、余すことない命と、違えることない忠誠を、アキの中に隙間なく放って、ナルオミは彼女を抱きしめたままベッドへ倒れこんだ。鼻先が触れ合って、アキが笑った。

「死ぬかと思った」

「構いません」

「なんだって?」

「おれもすぐに追いつくから」

 ナルオミも彼女を真似て笑った。


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