3 「狂気のための愛と死」(2)

 ぼんやりと薄明るいなかに、レコードの響きは続いている。ひび割れそうなヴァイオリンと非情を奏でるピアノが、旋律の中で出会い、別れていく。音楽に馴染みのないナルオミは、ゆっくりと回り続けるレコードを見つめて終わるのを待った。

 虫が息絶えるときのような雑音を最後に、調べが途切れる。

「冗長、いや、長い曲ですね」

「ロンドっていうんだ」

「曲名ですか」

「いや、形式だ。同じ主題を繰り返す音楽のことをいう」

「はあ」

「あからさまに興味のない顔をするな」

 アキはレコードの針をはじめに戻した。

「これは母の形見なんだ。この曲も、このピアノも、このレコードそのものも」

 レコードを入れる薄い紙箱を抱いて、アキは愛しさに目を細める。片方の頬を光に濡らしたアキは、そのまま光の中に溶け出してしまいそうだった。

 再び流れ始めたピアノの音色に、ナルオミは黒いレコードを振り返った。アキが小さく笑った。

「さっきと同じだろう」

「はい。まるきり繰り返しだ」

「でも序盤は大人しいはず。よく聴いて。少しずつ、少しずつ、たかぶって歪んでいくから」

「歪む?」

「この曲のタイトル。狂気のための愛と死」

 さらりと言って、アキは続けた。

「愛も死も、歪んでいくんだってさ。愛と死のために」

 アキは鼻歌まじりにメロディをなぞる。ナルオミは無言で音楽に耳を傾けた。

 旋律そのものは、ピアノが規則正しいリズムを取って、葬送歌のような静けさを湛えていた。ヴァイオリンは繊細で几帳面なピアノを嘲笑するように弦を震わせ、愛を慈しみ、愛を愛し、愛を悼み、愛に狂っていく。それらが何度も繰り返し奏でられていた。

「ここからだよ」

 絡まる二つの音色は、少しずつ強弱の幅を広げていく。それは表現の幅となり聴く者に深みを感じさせた。だがそれも結局は、繰り返しの渦中なのだ。

 聴いていると、足元がぐらつくようだった。覚束ない。ナルオミは知らず壁に支えを求めていた。

 延々と続く、終わりのない螺旋階段をのぼっているようだ。来た道を振り返っても、行く先を振り仰いでも、ただ階段が伸びているだけで何もない。のぼっても、のぼっても、辿り着くところはなく、のぼっているという意識だけが積み重なり、やがて自分が立っている場所すらわからなくなる。

「追いつめられている、そんな気分になる」

 ナルオミは絞り出すように言った。アキはただナルオミを見つめるだけだった。胸の十字架に、澱がこごる。

「まあ、確かに狂気ですね」

「その言い方、おまえは否定しているの? 繰り返すことを」

 他意のないアキの問いに、ナルオミは口ごもった。

 積み重ねるのではない。ただ、繰り返しているだけなのだ。成長は元より、変化すらない。何度も何度も、同じ運命を巡り、失うことを延々繰り返す。そこにどんな価値があるというのか。

「否定している。けれど、諦めています」

「受け入れているのか、自分が否定していることを」

「そうですね。そうせざるを得ませんから」

「悪夢を繰り返すのは確かにぼくもつらい。でも、繰り返すことすらできず、ひと所から動けなくなる、そういうこともあると思う」

「繰り返しも、結局は同じ場所へ帰ってくるだけです。意味がない」

「違う。繰り返し続けるおまえには、本当に同じ場所なんてないよ、ナルオミ。繰り返すことができるなら、一歩でも動くことができたなら、それはもう違う場所だ」

 いつになく感情的に言い放って、アキは俯いた。腕に抱えた薄い紙箱で顔を隠す。照れや羞恥や後悔などではない。こらえているのだとすぐにわかった。

 強く握りしめられたアキの手に触れる。冷たく、かたい指だった。

「アキさん、あなたはなぜここへ」

 ナルオミの手の下で、行き場を失った力が震えた。脆くて強い、生きている手触りがある。アキは顔を伏せたまま、小さく首を振った。

「どこにも行けない。ぼくはずっとここにいるしかなくて……」

 頼りない声、細い指、壊れてしまいそうな小さな体。だが、ただ弱いだけではない。彼女は弱さと闘っている。弱さを恥じ、弱さを殺し、弱さに呑まれながら、必死に強くあろうとしている。

 それはナルオミだけが知っている、彼女の本当の姿だ。

「ナルオミ、ここにいて。ぼくと一緒に、ここに」

 アキは顔をあげ、背の高いナルオミを上目遣いに見つめた。底の見えない黒い眼差しが、白い光の中でいっそう輝く。瞳に宿った光の欠片が、瞬きで零れ落ちた。

 彼女は弱く脆い。だが強く美しい。

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