3 「狂気のための愛と死」

3 「狂気のための愛と死」(1)

 襲撃から二十日が経った。

 狙撃手を確保したまではよかったが、依頼主についてはわからないままだった。本当に依頼主を知らないのでは、という意見も聞く。知っていていつまでも耐えられるような締め上げ方ではない。それほど固い絆など幻想と、誰もが笑った。

 アキの怪我は、出血こそ多かったものの大事には至らなかった。しばらくは利き腕が満足に使えない不自由な生活だったが、それも昨日あたりからは平気なようだ。

 アキの馴染みの医者は免許を持たない闇医者だったが、腕は確かだった。発熱や化膿もなく、話によると傷跡は数年で消えるという。不規則だった食事の管理もナルオミがおこなっていたので、むしろ体調がよくなったくらいだとアキはわらった。

 総統になってから慌しかった生活に、ささやかながら余裕ができた。

 組まれていた予定を、襲撃と無関係であることが確かな相手に絞り込むことで半分に減らした。先方からの見舞いを断るなど、ナルオミのやり方は強引だったが、総統の体に障るといえば誰も反対しなかった。

 執務室の前まで来ると、中からレコードの音色が聴こえた。強弱をもって途切れながら、扉の隙間から音が染み出てくる。ナルオミはノックしようと上げた手を、しばしそのままにした。

 レコードに重なって、かすかに歌声が聴こえる。アキの声だった。

 ナルオミは目を閉じて耳を澄ました。涼やかで媚びるところのない、静かな声だ。重なり合った雪の囁きにも似ている。さやかで、気高い。

 廊下の角から足音があった。曲がってきたのはサカキだ。ナルオミは上げたままだった手で扉を叩き、返事を待たずに部屋へ入った。

 執務室にアキの姿はない。ナルオミは持っていた書簡の束を机に置き、隔たりなく続いている寝室へ向かった。レコードは寝室の窓辺にあるはずだった。

 寝室の壁は暗く、たったひとつの窓から差し込む冬の陽が四角く浮き上がっていた。スクリーンのように白く抜き取られた窓には、十字に組まれた桟が黒く濃く映っていた。

 窓際にはアキの姿があった。スクリーンに寄り添って佇む影は、音のない映画のワンシーンのように、実体を感じさせない。もし手を伸ばして触れようものなら、指先には冷たい絹目がかすめるだろう。こちら側の薄暗い世界に染まらず、逆光で翳る首筋は幾千光年を越えてナルオミの時をとめた。

 美しさに、見とれた。

 姿かたちの美しさだけではない。存在そのものの美しさだった。神でさえ、これほど美しく在ることは不可能だろう、そう思えた。

 なぜなら、神はこちらを振り向かないから。

「アキさん」

 呼びかけに、美しい人が振り返る。

「なんだ」

「歌、聴こえていましたよ」

「誰かいたのか?」

「サカキが」

「心配するな、誰もぼくの声だなんて思わない。レコードの中の女だと勝手に都合してくれる」

「楽観的ですね」

「そう思うのは、ナルオミ、おまえがぼくのことを知ってるからだよ」

 白い光の中にいるアキの笑顔は、暗がりのナルオミには眩しすぎて見えない。アキは再び窓の外へ視線を投げると、異国の歌を口ずさみ始めた。

 アキが女だということは、二人の間の秘密になった。

 そもそも、アキが先代の跡継ぎ候補として組織へやってきたときから、ナルオミには瓶の底にへばりついたジャムのように、拭いきれないひとつの疑問があった。

 なぜ、先代はアキの名を口に出さなかったのか。

 先日の襲撃のように、いつ命を落とすかわからない世界にいる。跡継ぎ候補がカイト一人では、あまりにもリスクが大きい。たとえ側妾の子でも、男子がいるなら先代の手で、先代が存命のうちに組織へ連れてくるべきだった。ナルオミが知る先代は、そのような失態をする男ではない。つまり、連れてくる必要がなかったということになる。

 それは、アキが女だからだ。

 アキは先代の生前から幹部を知っていたというが、実際に面識があったのはアキの母親なのだろう。もしくは、アキが相当幼いときのはずだ。でなければ、騙せるはずがない。

 組織の血統は絶対だ。それはつまり、先代の血を引いている男子になら、平等に機会が与えられているということでもある。あとは本人の能力次第だ。

 アキには血統も能力もある。ただ、男ではなかっただけだ。

 瓶底の疑問を無理にこそぎ落とそうとはしなかったが、結果として瓶は割れた。ジャムは少し糖度を増して、ナルオミを満たした。

 しかしそれは、新たな疑問への一歩でもあった。

 なぜそうまでして、アキは総統になったのか、なる必要があったのか。一体、なんのために。

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