2 斑の雪(4)

 ナルオミは座り込んでいたアキの背中に手をまわして立ち上がると、膝の裏にも腕を差し入れて一気に抱えあげた。

「お、おい、ナルオミ!」

 軽々と抱えられ、アキは高い声を上げた。ナルオミはため息を隠そうとはしなかった。

「我儘ならもう伺いました。次はおれの我儘です」

「違う、さっきのは命令だ。我儘などと――」

「警戒を怠るな。警察にはうまく説明しておけ」

 ナルオミは準幹部の男に指示を残し、アキの抗議を無視したまま屋敷へ戻る。アキはナルオミの腕から逃れようと足をばたつかせたが、体を捻るたびに傷口が痛んで、すぐに大人しくなった。

 部屋へ戻り、執務室から続く寝室へアキを運ぶ。アキの体は想像していたとおり軽く、羽毛を抱えている心地だった。厚手の毛皮の感触が、さらにそう思わせる。

 ナルオミはアキをベッドにおろし、邪魔な上着を脱ぎ、肩からかけていた銃のホルダーを外した。

「傷を見せてください」

「いい。手当てくらい自分でできる」

「利き腕の肩をですか。いいから脱いで」

 抵抗するアキをおさえて、マーブル模様の毛皮を剥ぐ。途端に一回り小さくなったアキの右肩からは、まだ血がこぼれていた。白いシャツは半身が血で染まり、斑になっている。思っていたより出血が多い。小柄なアキにとっては命取りにもなりかねない。

「本当に医者を呼ばないつもりですか。何か情報が漏れるのを怖れてですか」

「まあ、そんなところだ。いいからおまえも部屋を出ろ」

「は?」

「は、じゃない。出ろと言っている」

 アキはシーツを手繰り寄せて端を咥えると、片手で器用に裂いた。

「おまえにはぼくの命令がすべてじゃないのか」

「場合によります」

「知り合いの医者がいる。そこへ行く」

「どうやって。今の状況で外へ出るのは危険すぎる」

「折を見て行くさ。作業着でも着て裏口から出れば、ぼくとはわからない」

 裂いた布を腋にはさみ、肩に巻いていく。手慣れてはいたが、痛みのため何度も動きが止まった。

 ナルオミはもどかしさに耐えられなくなった。彼の手を取って、巻きかけの布をはぎ取る。

「これでは傷口が汚れます。ひとまず消毒を。それから清潔な服に着替えてください。あなたの命令はおれには絶対だ。でもそれはあなたが在ってこそです」

 続いてシャツの襟に手を伸ばすと、アキが必死で拒んだ。ナルオミは片眉を上げてアキを見おろす。

「なんですか」

「ま、待て」

「待ちません。あなたの我儘ばかり聞いていたら、おれはあなたを……」

 喪ってしまうかもしれない。そう口にすることは憚られた。口に出してしまうと、運命がそちらへ傾いてしまうような気がした。

 胸のうちに生じた悪夢を振り払うように、ナルオミはアキの体をベッドへ押しつけて、シャツの襟を開いた。

 だがナルオミはそこで凍りついたように動きをとめた。

「総統……、これは」

 それだけ言うのがやっとだった。

 斑に染まったシャツの下にはきつく晒布さらしぬのが巻かれ、仄かな膨らみを覆っていた。ナルオミはアキの胸元を見おろして、呆けたように呟いた。

「女……?」

 目を上げてアキの顔を見ると、彼――否、彼女は白磁の肌を淡く染めて視線を逸らした。

 目眩がして、ベッドに両手をつく。その隙にアキはシャツの前をかきあわせた。ナルオミはそのままの体勢で顔を上げ、あらためてアキを見つめる。

 白くなめらかな肌を濡れたような黒髪が縁取り、長めの前髪からは宝玉の息遣いを宿す黒い眼差しが覗いた。頬には朝焼けが差し、かたく結んだ唇は春を待つ蕾のようだ。か細い首も、腕も、足も、生命からは程遠く、まるで人形そのものだった。

 女だとわかったところで、アキに変わるところはない。変わってしまうのは、こちら側の見る目だ。

「医者を呼びたくない理由は、それですか」

「そうだ」

「他に知っているのは誰です」

「いない。おまえだけだ」

 アキがベッドを下りようとするので、ナルオミは大きく息をはいて、わかりましたとうな垂れた。

「あなたの我儘を聞きましょう。馴染みの医者がいるなら、そこまでおれが送ります。それが組織にとって最良の選択だ」

「だったらおまえも部屋を――」

「出ません」

「ナルオミ」

「おれに処置をさせてください。とてもあなたには任せられない。晒布はそのままで結構です。なるべく触れないようにしますから」

 懇願するナルオミに、アキは素直に頷いた。ナルオミは胸を撫で下ろして、小さく礼を言った。

 つい先ほどためらいなく開いた襟に、今度は遠慮がちに触れる。アキは息をとめて大人しくしていた。

「よく、泣きませんでしたね」

「女のほうが痛みに強いって言うだろう」

「そんな次元の話」

 傷口にはりついたシャツをゆっくり剥がし、ナルオミは失笑した。乾きかけた血のせいで皮膚が引っ張られてアキは顔を歪めたが、声を洩らしはしなかった。

 血は少しずつ止まりかけていた。ナルオミはアキをそのままにして、執務室に置いてある清潔な包帯を取りに立ち上がる。

「ナルオミ」

 これまで聞いたことのない心細い声だった。

「さっきぼくを守ってくれたのは、おまえだけだったな」

 振り返ると、アキは自らをあたためるように、そして小さく壊れ易い自身を恥じるように腕を抱いていた。

 だがその脆さは、ナルオミをいっそう強くする。

「それがおれの命ですから」

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