2 斑の雪(3)

 玄関前にはすでに車が待っており、半開きになった扉から冷たい風が吹きこんでいた。

「総統、おはようございます」

 外の寒さに頬を染め、ハセベが中へ入ってきた。

「おはよう。今日はずいぶんと冷える」

「ええ。とうとう降ってきましたよ」

「そうか。雪は、初めてなんだ」

 アキは声を弾ませ、扉に手をかけた。ナルオミもそれに続こうとしたが、横からハセベにとめられる。

「ナルオミ、本当に本気なのか。いいのか」

「一体、何の話です」

「まさか考えていないだろうな。その、復讐――」

「ハセベさん。それは総統に対する不敬だ」

 ナルオミは人間味のない鋭い目でハセベを睨みつけた。視界の隅に、空を見上げるアキを捉える。早くそばに行かなければ、いや行きたい。

 ハセベはそんなナルオミの気持ちを知らずに、ゆっくりと話した。

「だが、おまえのカイトへの忠誠は、簡単に消えるものではないだろうに。何か取引をしたのか。先代から託されたものでもあるのか。いい加減、皆にわかるようにせんと、組は内側から崩れてしまうぞ」

 皺だらけになった両手をこすり合わせて、ハセベは白い息を吹きかける。

「周りにはおまえの心変りが理解できんよ」

「おれは何も変わらない。強いものに従う。理由ならそれで十分では」

「人ってのはな、人の心ってのは、そうはいかないもんなんだ。まあ、おまえには難しいかもしらんな」

 瞼のくぼんだハセベの目に、悲哀が浮かぶ。肩を落としてため息をつき、ナルオミの肩をたたいた。

「みんなわかってるさ。おまえにとってカイトを喪うとは、どういうことなのか。おまえはお袋さんをあんなふうに亡くしてる。カイトのことで迷いが出たとしても、今なら誰も責めはせん」

「母のことは関係ない」

 肩に触れるハセベの手を払いのけ、ナルオミは持っていた資料に目を落とした。タイピングされた無機質な文字が、蛇のようにずるりと蠢く。揺らいで、霞んで、肌をかすめる寒さが暑さにすり替わる。

『定められた運命には逆らえない。それが運命。だからこそ運命。決して覆らないのよ』

 母はそう言ってナルオミの首に手をかけた。息苦しさにもがいて、母の手を引っ掻きまわした。やめろと何度も叫んだが、母がその手を弛めることはなかった。やがてナルオミは気を失い、次に目覚めたとき母はもうみずからの命を絶っていた。

 喪失感などという言葉さえ知らなかった。だが喉の奥にへばりつくような臭いと、耐え難い孤独ははっきりとナルオミの体に刻み込まれた。

 誰よりも失うことを怖れるようになった。せめてひとりきりで立つことができれば良かったが、孤独の心細さにも耐えられなかった。誰かと一緒にいることを選べばいつか失ってしまうかもしれないとわかりながら、人と関わることをやめられなかった。

 カイトは強かった。血筋と、力と、優しさを持っていた。カイトと出会い、ナルオミは神を信じた。彼ならば、ナルオミの喪失の運命を変えられると思った。ついに救われたのだと天を仰いだ。

 耳にはまだ夜明け前の、カイトを奪った銃声がこだましている。枯れ木を踏むような味気ない音をしていたのに、ぬるりとした生々しい感触が消えない。それは、何度も味わってきた失いの手触りだ。

 繰り返し、鳴り響く。正午を知らせる鐘のように、無遠慮に無感動に打ち鳴らされる。

 そう、銃声が。今も。

 今……?

 ナルオミは顔をあげ、外を見遣った。続く銃声が、寒さで張り詰めた空気を強引に引き裂いた。

 誰かが叫びをあげた。

「銃撃だ!」

 記憶の風船が弾けて、ナルオミは我に返った。総統と呼ぼうとして、言葉に詰まった。アキが嫌がるかもしれないと思うと、踏み出す足も一歩遅れた。

 ひときわ乾いた音がして、アキの頼りない体が後ろへ流れた。

「総統!」

 ナルオミは持っていた資料を投げ出してアキの元へ駆け寄った。

 車の運転手や、警備で立っていたものの多くが銃弾を受けて倒れていた。アキはビルの玄関口とその前に横付けした車のあいだで倒れている。狭い場所だ。狙撃手は周囲のどこか高い場所から撃っている。こちらには不利な状況だった。応戦するより、逃げるほうが先だ。頭ではそうわかっているものの、腕の中にぐったりとしたアキを抱きとめて、ナルオミは一瞬で理性を失った。

 もう、奪わせない。

 アキの背中に回していた手を離し、上着の内側から銃を抜く。銃声の響きとアキが倒れた方向を頼りに、狙撃手の位置を推測する。視線の先には、半年前に閉鎖された雑居ビルがあった。ナルオミの中に拠り所のない確信が芽吹いた。腕を伸ばし、引き金に指をかける。

 だが引き金を引ききる前に、アキが足元にしがみついてきた。

「やめろ。ナルオミ」

 騒ぎを聞きつけた組織員たちが、次々と玄関先へ出てくる。ビル内は一気に殺気立った。

 ナルオミは狙撃手がいるであろう外に背を向けて、アキの前に膝を折った。

「総統」

「少し掠っただけだ。いいから下がれ。皆も下がらせろ。誰一人、死なせるな」

「しかし」

「これは命令だ。下がらせろ」

 整った顔を痛みに歪めて、アキはナルオミを睨みつけた。ナルオミは私情にまみれた反論を呑みこみ、門を出ていこうとする組織員を呼びとめた。

「先に怪我人を収容する」

「だが、ナルオミ」

「これは総統命令だ。銃撃はとっくに止んでいる。追っても無意味だ」

「くそっ」

 準幹部の男は周りにいた組織員に指示を出すと、外回りの仲間に電話をかけ、調べるよう告げていた。

 ナルオミはアキの元へ戻り、毛皮から滲みだす血に目を瞠った。

「何が掠っただけだ」

 引いたはずの恐怖が再び顔をのぞかせる。

「見せてください」

 ナルオミは肩を押さえるアキの手を取った。毛皮は裂け、そこからアキの体の内側が見えた。確かに掠っただけのようだったが、毛皮を着ていなければ銃弾は確実にアキを貫いていただろう。

「離せ。大した怪我じゃない」

 アキは手を振り払おうとしたが、ナルオミは意に介さず、アキの手を掴んだまま手近な男を呼びつけた。

「医者だ。総統に医者を」

「はい!」

「勝手なことをするな。いらない、そんなもの不要だ」

「……え、あ、はい」

「いいや、呼べ」

「あ、あのぉ……」

「ぼくの命令が上位だ。わかったら戻れ」

「は、はい」

 男は二人の顔を見比べたあと、足早にその場を去っていった。ナルオミはその背中に見切りをつけると、眉を寄せてアキを一瞥した。

「強情な人だ。ひとまず部屋へ」

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