2 斑の雪(2)
ナルオミは足取りをはやめてアキのすぐ後ろを添うように歩いた。振り返らずに、アキが言った。
「今日はどんな予定だ」
「はい。先日お会いになった龍征会の会長と昼食を。そのあとは夜まで時間がありますので、うちのシマや店を見て回りましょう」
「まだ何とか人間的な生活を送れそうだな」
「そうですね。総統に何か希望があれば――」
「ナルオミ」
突然立ち止まったアキを見おろして、ナルオミは眉をひそめた。
「歩いてください、総統。遅れます」
「それ、やめてくれないか」
「は」
「だから、ぼくのことは総統と呼ばないでくれ」
「そう言われましても……」
ナルオミはアキの背中を押して歩くよう促した。だがアキは一歩たりとも動こうとしない。
「カイトのことを呼び捨てていただろう」
「それが?」
押すのを諦めたナルオミは、アキの腕を掴んで引っ張った。毛皮に包まれた腕は細く、思わずためらった。
長めに伸ばした前髪から、アキの黒い双眸が覗く。見つめていると、自分の立っている場所すら不安になるような、どろりとした感情を呼び起こされた。真っ直ぐで、奥行きを感じさせないほど深い、混じり気のない眼差しだった。
「ぼくはカイトを越えたい。越えなければならない。でなければ奴に勝って、組織を継いだことにはならない。おまえの中でカイトよりも大きな存在になりたいんだ」
この人は、一体何を言っているのだろう。ナルオミはアキの腕を掴んだまま呆然とした。
アキはここに、ナルオミのそばにいて命令をくれる。ただそれだけで、すでにカイトよりずっと大きな存在であるというのに。
「意味が、わからないのですが。そもそも、カイトは総統という立場ではなかった」
「ぼくは確かな手応えが欲しい」
「くだらない。そんなことが理由ですか。だったら呑めません」
ナルオミの答えに、アキは唇を噛んで顔を逸らした。その横顔にナルオミは嘘を見抜く。
「本当はどうなんです」
「ぼくが嘘をついていると」
「もし本当にカイトを越えたいと言うのなら、あなたは今すぐここから去るべきだ。現状を理解できない総統など、害悪です」
「なんだと」
「おれを失望させないで」
腕を掴む手に力がこもる。壊してしまいそうで、怖い。だが怖れの奥に強い期待が息を潜めて待っている。ナルオミはあえて力を弛めることはしなかった。
アキは腕に張りついたナルオミの手に自分の手を重ねて、不器用に爪を立てた。溺れそうな泳者のように、大きく息を吸う。
「……ぼくが」
「はい」
「ぼくがぼくであることを、ずっと教えていてくれ」
アキの体は震えていた。小さな体には大きすぎる不安が、はちきれそうになっている。
「総統と呼ばれ続けたら、ぼくはいつかアキではなく、総統という生き物になってしまいそうだ。ぼくという個性はなくなって、あの椅子もぼくの体の一部になってしまって、最後には人ですらなくなってしまう」
「今は時間に余裕がなく、そういうことも感じるでしょう。ですが、しばらくすれば余暇を確保します。あともう少し我慢をしてください」
「忙しさを責めているんじゃない。むしろおまえのほうがずっと忙しいことも休んでいないことも知っている。そうじゃない、違うんだ。総統という立場ならぼくは背負おう。どんなにつらい責務もこなそう。だがぼくは、せめて最後のところはぼくでいたいんだ」
冷たく湿った指先が、握りしめて白くなる。
「ぼくにはもう、家族がない。ここしかない。だから、ただのアキにはなれない」
『わかるさ。置いていかれる者の孤独は』
ナルオミはそう言ったアキを思い出す。
先代だけではない。アキは母親も病気で亡くしていた。
手の甲に食い込むアキの細い指から、不安が流れ込んでくる。その不安の正体を、ナルオミも知っている。自分に家族という背景がない心細さは、現状を変えるため前へ踏み出そうとする歩みさえ引きとめる。
「だがおまえがずっとぼくの名を、ぼくをアキと呼んでいてくれたなら、ぼくはぼくを生きられる。そんな気がする」
ひび割れてしまいそうな叫びを、そっと水に浮かべるように吐き出したアキは、もう震えてはいなかった。
なんと脆い強さだろう。たかがそれだけのことで折れてしまう心と、たかがそれだけのことで戦える心とが、同じところに存在している。あの眼差しの正体がここにある。ナルオミは戦慄した。
突き立てられた指を掴み返して、ナルオミは振り払うように手を離した。
「組織内の規律もあります。おれがあなたを呼び捨てては、他へ示しがつかない」
「わかっている」
「使い分けろと?」
「そうだ」
透き通るような白い肌が、苛立ちと恥じらいでわずかに染まる。
「わかりました」
ナルオミは短く息をはいた。表情を変えずに続ける。
「ですが、呼び捨てるのは、もう少し親しくなってからにさせてください。二人でいるときに総統とは呼ばない、それだけは守りましょう」
「親しくってなんだ。気持ち悪い」
「お互いにもっと言葉を交わしてから、ということですよ」
再びナルオミがアキの背中を押すと、今度はすんなり歩き出した。アキは押されながらナルオミを振り返る。
「妙な男だな、おまえは」
「でしょうね」
「自分で認める奴がいるか」
眉をひそめて笑う仕草が、いつになく幼く見えた。こうやって、いくつもの表情を重ねていけば、いつか家族になれる気がした。そうすれば、彼をひとりきりにしないで済む。アキがそれを望むなら、ナルオミも望む。それだけのことだった。
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