第49話 春が来た①
この世界で
その時の俺は国綱と一緒になって廊下のソファで半覚醒二度寝の真っ最中だったのだが、音が響き渡った直後に部屋を飛び出してきたエステルに揺り動かされ、ゆっくりと身体を起こす。
「春です。春がきたんですよ!」
興奮気味に叫ぶエステルに首を傾げて見せると問われた事すらも嬉しそうに、こと細かに説明をしてくれる。
「黒の森の南端から更に南へと伸びるシラー
あれは、その雪が雪崩になって滑り落ちた音なんですよ!
この音が響き渡るといよいよ春の訪れなんです!」
そう言う彼女は俺の腹の上にいた国綱を持ち上げ、抱きしめながらクルクルと踊りだす。
なるほど、長い長い冬がようやっと終わった訳だ。
そう考えるとエステルの喜ぶ姿もよく分かる。
それはともかく、そいつとっくに目を回してるから、ほどほどにしてやってくれ。
さて、この冬はとても充実した冬ごもりになった。
まず、いきなりだが紙の生産が軌道に乗った。
その後は
それを大型の薬品槽に沈めてドロドロのスムージー状にした上でローラーの上で薄く
なお、貯水槽や薬品槽は
それなのに、その間にも本人(本体?)は、雪の積もった屋敷の庭で遊び狂っているのだから実に不思議なものだと感じてしまう。
さて今回作った紙は大きく分けて二種類である。
A4サイズの文具用紙と柔らかふんわりのトイレットペーパーである。
特に後者は重要だ。
何と言ってもこの冬の間にトイレットペーパーの使用に慣れたエステルが王都に行く間のトイレで、“今までと同じ
その点は俺も同じなので大いに同意して、言われるまでもなく最優先で生産に着手したのである。
王都において、あちらの宿に泊まるのはしかたない。
いくら快適でも王都に輸送艇を乗り込ませて、その中に住む訳にはいかないからだ。
だが、少しでも快適な生活をしたい、と考えるのは当然の欲求だと俺も思う。
それがトイレの紙程度の話ならささやかな望みではないか。
よって捕虜たちには馬車馬のごとく働いてもらった。
奴隷のように、でないだけまだマシだと思って欲しい、と言い訳しながらこき使ったつもりだが、案外彼らにとっては紙づくりは楽しいものだったらしく、熱心に働いてくれた。
自分たちが使っているトイレ用の紙がどのようにして生まれるかにも興味があったようだし、技術を身に着けて、あちらでも生産したいという気持ちもあったようだ。
そこで基本的には薬品槽による工程だけは秘密として、それ以外はすべて見せた。
また、薬品についても少しずつヒントを流した。
例えば木端を溶かすためには強アルカリ薬品である水酸化カリウムを使ったのだが、材料の中のひとつに石灰石がある。
掘り出し自体は南部の山中でレイバーアンドロイドに行わせたが、裏の森の中に降りた輸送機から納屋までは、わざわざ彼らに運ばせた。
その他、ちょっと目線を変えれば自然と食塩やアンモニアが使われていることにも気づくようにするなど、ヒントの大盤振る舞いである。
情報を漏らしたのには訳がある。
まず、他の地域でも紙を作ることができる、と思わせる事でこの土地に人が出入りするのを程々にしてもらう事が第一。
もちろん領地を豊かにするために人口の増加を狙ってはいる。
だが、急激に人が増えるのは好ましくない。
何より、やって来る奴らが正当に対価を払って技術を学ぶのではなく、単に技術を盗みにくるだけの輩であった場合は治安の悪化にも繋がり兼ねないからだ。
それに、いずれこの国全域に流通するトイレ用紙生産のすべてを、この小さな村だけで担うことはできないだろう。
それならば色々と隣に肩代わりしてもらう方が良い。
それ以外にも狙いはあるが、ともかく、そんな意味合いである。
紙だけの話をしたが、実は紙と同時進行で生産を始めたものに石鹸がある。
この世界には灰汁や、今回の紙づくりに使った水酸化カリウムと獣脂を混ぜて作る軟石鹸(半液体石鹸)はあったようだが固形石鹸というものは無かったようだ。
これらの軟石鹸の製法はなんとなく知れ渡ってはいるものの、都市部では獣脂が手に入れにくい事もあって高級品であった。
この軟石鹸、獣脂の匂いが酷い上にあまり汚れが落ちない、という散々な代物だが、それでも高級品であり庶民にはなかなか手が出ない。
田舎であるフライファエド領では灰汁アルカリも獣脂も手に入りやすいことから各家庭で軟石鹸は使われているのだが、都市部などでは灰汁だけを使うか、小便を集めて洗剤代わりにするのだそうだ。
この館でそんな洗濯がされてなくて良かったとしみじみ思う。
洗濯と言えば、北集落では冬の間の手工業品として洗濯板を作らせることにした。
各家庭で冬の間に300枚の生産を命じた。
集落全体では2500枚である。
来年までの間に村全体で20万枚ぐらいは作って、次の春明けには、この国全土で一気に売ってしまおうと思っている。
そうすれば偽物が出ても固まった販売ルートは動かない、と見ているからだ。
成功すれば一気に金貨4000枚にはなる。
また、少々値が張るとは云っても、こいつは消耗品だ。
衣類を
使い慣れた家庭なら5年おきぐらいには買い替えることになるだろう。
北集落の連中は、自分たちが作っているモノが何なのか知らないままにコツコツと銀貨1枚を積み重ねていっている。
秘密を守らせるには、自分たち自身がその秘密を知らない事が一番いいのだ。
メイド3人娘に、ハーブを練り込んだ固形石鹸と一緒に秘密厳守を前提にして洗濯板を使わせたところ、“マジックボードだ!”と大騒ぎになった。
騒ぎすぎるので、“秘密がバレたら取り上げるぞ”と言うと、3人揃ってシェイカーも驚くほどに首を縦に振って見せたのには笑った。
ともかく商品の種は出来た。
次の問題は、それを誰に扱わせるか、なのだが……
最初は王都に出向くついでに、あちらで適当な商人に当たろうかと思ったのだが、その予定も、ある人物の到来で少しばかり考え直すことになる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「パトリシア・メラスと申します。レイ様、アイ様には今後ともごひいきに」
栗色の長い髪を大きめのバレッタで後ろにまとめ、化粧は嫌味にならぬほどに薄っすらと上品にしつつも高額なアクセサリを身に着けていないのは盗賊対策であろうか?
年齢は30歳前後だと思われる。
その少しばかりふっくらとした顔立ちの女性は、アイを見ると運気の種を見つけたとでも言わんばかりに挨拶と同時ににっこりとほほ笑んでみせた。
明日で春待月も終わるという日に屋敷の門を叩いたのは、フライファエド家御用達の行商人であった。
御用達とは言うものの、実際の処、こんな辺鄙な村にやって来てくれる商人は貴重である。
生産地から村まで商品を運ぶにしても確実に買ってもらえる品物でなくては赤字になる。
だから、塩や砂糖、布などの消耗品か、注文を受けた品でなくて利益が出ない。
その利益ですら微々たるものである上に、品物を売って空いた荷台に乗せる商品がこの村にはまるで無い。
時々、小さな魔獣の素材が出ることを期待するぐらいだ。
一応は木材という販売品もあるが、一度に大量に売るためには大都市までの運搬の問題を解決しなくてはならない。
領の南を流れる川は王国中央から王都まで流れる大河に繋がっているので船さえあれば、それも解決するが、そうなると荷馬車で細々と商売を行うパトリシアにはなんの利益にもならない。
南に大きな街を持つゼンガ―リンツ領が無ければ、好んで足を伸ばしたい土地ではないのだ。
それでも彼女がこの村を訪れるのは、駆け出しの頃に先代によって周りの貴族に顔を繋いでもらった恩と、彼女が居なくては辺境の暮らしが行き詰ってしまうという使命感からである。
真に得難い人材と言えた。
因みに先だってアウグストスが相打ちとなった斧鹿を買い取ってくれたのも彼女だ。
父親を亡くしたエステルには、これからの領地経営には金はいくらでも必要だと考え、かなり高額で買い取ってくれたらしい。
もちろん単なる同情で高値を付けた訳では無く、王都まで運んだ素材は充分な儲けになったとも素直に語った。
「また、いい出物があったら宜しくお願いします!」
彼女としては、あくまで商売上の挨拶として言ったのだろうが、それは俺にいたずら心が沸いたとしても許されるおあつらえ向きの一言だったのではないだろうか?
◇ ◇ ◇ ◇
あとがき:お読みいただきありがとうございました
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