岡田斗司夫ゼミ
岡田斗司夫ゼミ♯295:日本の映像作品に対する違和感
以下は「岡田斗司夫ゼミ♯295:終戦記念日『シン・ゴジラ』特集、ゴジラと核兵器」のテキスト版を読んで、演技論を中心に考えたことです。
なお、ゼミの動画はインターネットで公開されています。
〇画面の中だけの日本人
日本人の会話には、三つの特質があります。
一つ目は、無表情。
二つ目は、身ぶり手ぶりを使わない。
三つ目は、「大人」は公的な場で叫ばない、怒鳴らない。
岡田さんが書いている通り、これらの特質を無視して、欧米の演技をまねて作られた映画やドラマがあります。
それらの映画に私は違和感をおぼえ、最後まで見ることができません。
日本人の特質を考慮した作品がもっと出てきてほしいです。
たとえば、映画「シン・ゴジラ」のような。
〇シン・ゴジラにおける石原さとみへの違和感とその正体
シン・ゴジラにおける石原さとみさんの演技に違和感を持っている人は多く、私もそのひとりです。
岡田さんの話を聞いて私が類推したのは、日系三世で米国大統領を目指す女性「カヨコ・アン・パタースン」という存在にリアリティがなく、そのために違和感を覚えたのではないか、周りから浮いているように感じたのではないか、ということです。
シン・ゴジラで描かれているのは、政治家や公務員が職務を遂行する場面ばかりです。
そういうシーンでは、今がどういう場面で自分が何を演じなければならないのかを役者が「空想する」、もしくは「台本を補う」必要はありません。
その中で、カヨコ・アン・パタースンだけが、演者の「空想力」が必要な人物で、石原さんを困らせたのかもしれません。
いえ、「カヨコ・アン・パタースンだけが」というのは誤りでしょう。
ほかの役者でも、公務を離れたときや感情を吐露する場面になると、首をかしげる演技が散見されました。
そういう場面になると役者の「空想力」が働いてしまい、ハリウッド的な、非日本人的な演技に陥ってしまうのでしょう。
シン・ゴジラは役者が「空想力」を働かせる余地の少ない映画でしたので、世界観にまとまりがあったように思います。
役者の「空想力」に頼り過ぎると、それぞれの役者が異なる世界観を持ってしまい、まとまりのない映画になります。
〇感情移入は必須か
岡田さんと同意見で、登場人物への感情移入の必要性については大いに疑問です。
少なくとも私は、感情移入をしないままに映画やドラマを見ます。
言い換えると、そうせずとも楽しめる作品しか見ない、見ることができません。
読み手が感情移入できることを主人公の必須条件のように説明している創作論もありますが、そのような教条主義はよくないと私は考えます。
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