倉橋由美子「迷路の旅人」を読んで(文学について)
〇文章の書き方
どのような文章を書くべきか?
個人的には、高卒程度の学力とそれなりの社会経験のある者が、読むに耐える文章を目指せばよいと思う。
その際に注意すべきなのは、自分が使いたい言葉ではなく、想定した読み手が求める言葉づかいに徹することだ。そして、その際は、できるだけ難解さを排す。
自分の使いたい言葉に固執した文章は、詩の出来損ないに陥る。
そして、読み手を想定し、そこから外れる者は切り捨てる勇気をもって書く。
万人に受け入れられる文章を書いた作家は、いままでひとりもいないことを肝に銘じておかなければならない。
また、頭の中で想像したものを、他人に文章で示すには、先人たちが磨いて来た書き方で表すのが無難である。
既存の書き方ではアイデアが活かせないと思い込むのは、九割九分、本人の努力不足が原因だ。
文章のオーソドックスな書き方というのは、有名無名を含めた数多くの先人作家が、その命をかけて生み出したものであり、それを尊重されるべきだ。
〇うつくしい文章はあるやなしや?
世の中に、美しい文章を書きたいと思っている人は多い。
しかしながら、なにをもって美しい文章とするかは、人によって判断が分かれる。
うつくしい文章の規定はいろいろあるが、よいアイデアを無駄のない文で表現したものを、うつくしい文章と呼んでも差しつかえはないはずだ。
無駄のある文章にうつくしさを感じる者は少数に留まる。
美しい文章についてわかっているのは、そもそも万人を納得させる規定などはなく、書き手がうつくしいと感じる文章よりも、想定している読み手がうつくしいと感じる文章を書ければ、文章を書く目的を果たせる可能性が高まるという事実ぐらいだ。
〇純文学とはなにか
純文学と呼ばれる小説は、読んでもよく分からない。
そもそも、どういう作品を純文学と規定するのかもあやふやである。
たまに意味を調べるのだが、すぐに忘れてしまう。
前に調べた時は、次のような文章を書いた。
『さようなら「純文学」』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884365949/episodes/1177354054884631958
対して、倉橋の純文学の定義は皮肉に満ちているが、私の胸にすっと入ってくる。
(行き過ぎた)文学マニアが同族だけに向けて書いた小説ということか。
『自分を文学の専門家であると考えたい人間が、その同じ種類の人間に読まれることを予想して書く文学ということで、これは素人向きに書かれていない以上、popularとはいえず、面白くもなく、またきわめて難解で(というのはtechnical termにあたる特殊な言葉が頻出するせいでもある)、といった特徴を当然そなえている』(№4626)
『そのつまらない男なり女なりが、つまらない問題を解決することができずに、深刻な観念をもちだして苦悩することに熱中しているのを、微細に書綴ったものが今日の「純文学」である時、大人の中で、これを興味をもって読む人間は「専門家」以外には考えられない』(№4879)
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