時蚕 フーマ

 男は身を翻すと、野うさぎが巣に飛び戻るように森の中へと飛び込んだ。

 頭を低くして、中腰で駆け走り、少しでも助力になればと木の幹を腕で押した。乾いた空気が歯の隙間を通り抜け、自分では掻くことのできない痒みを歯茎に残していく。喉に飛び込んだ酸素は、砂漠を生み出す死神の吐息のように喉の湿り気を奪い、食道が乾いてくっつきそうな気すらした。犬が獲物を追いかけるように、ハッハと息を荒げながら暫く走ると、木と木の間隔がやがて狭くなりはじめ、枝々が彼の頬や脚、胸から腹を打った。


 それは、まるで路地裏の娼婦たちが一杯のジンと一晩の宿代を求め、その僅かな脂肪の下に骨の硬さが浮かぶ胸元に彼の頭を抱き止めようと、細く伸びた手を伸ばし、爪を引っ掛けているような。あるいは、とっくに生を失った亡者達が、存分に残った寿命と元気さを贅沢に使う生者を妬み、恨んで、自分達の世界に引き摺り込もうと、泥の詰まって割れた爪を立てているようであった。


 そんな彼らの執着の抱擁を薙ぎ払うように、男は腕を後方に荒々しく振り払って、時には、掌が傷つくのも厭わず、その枝を握りしめて折りながら進んだ。そんな物に構っていられるほど、彼個人の所有する時間というものは無価値ではなかったのだ。

 しかしその時間を盗もうとする何かがいて、男はそれから逃げていた。



 彼が最初に違和感を感じたのは2週間ほど前であった。その日、彼は初めて金縛りというものを経験した。頭だけがハッキリしたまま、体はピクリともせず、まるで鼻腔が鼻詰まりで狭まるように、肺に入る空気は少なかった。あわて、もがくと、その瞬間に鼻の穴がピタリと閉じたかのように酸素が微塵も入ってこなくなり、またパニックになりそうになった。

 ジタバタと暴れたいのに、指先ひとつもまともに動かせない。後ろからきつく抱きしめられているかの如く胸が苦しく、頭がジンジンと疼いた。動け、動け!と必死に念じていると、ようやく身体に自由を取り戻した。


 心臓がバクバクと暴れ馬のように暴れ、酸素を必死に吸い込みながら、男は起きあがろうとして、また動けなくなってしまった。


 それは恐ろしいほど力強く、抗いようも無いほど絶対的な睡魔だった。指先はピクピクするのに、身体が起こせない。まるで引っ張られるように瞼が下がっていってしまう。何をしても無駄で、あたかも睡眠を貪る悪魔に脚を掴まれているような気分だった。

 しかし、抗おうと繰り返された瞬きは、あっけなく速さを失い、彼はまた瞳を閉じてしまった。


 沈んでいく意識の中、彼は、まるで意識というものが、何かに脳の裏から吸われているような心地だった。



 それがここ2週間、2日、3日に1回のペースで繰り返されていた。日を追うごとに、その何かが彼を微睡へと誘う強さは激しくなり、彼が抗える時間も減っていった。やっとの思いで身体を起こしても、再び沈むようにベットに倒れ込んでしまうザマだった。金縛りに苦しみ、ようやく目覚めたかと思えば、また吸い込まれ。睡眠の取りすぎなのか、気分が車酔いの様に悪くすらなってきても、呪いのように瞼は強引に降りてきた。

 そうして失う時間というものは馬鹿に出来ないほど多く、彼は貴重な時間を盗まれ続けた。


 そして今朝、彼はベットの下にいるそれの存在を初めてハッキリと知ったのである。



 いつも通り、無意味な抵抗を続けていた。死神の鎌の刃に争う老人のように、弱々しく、それでも意識だけは息巻いていた。息もまともに出来ないのに、息切れを起こしたように心臓が跳ねる。鉄球を投げるように、重々しく上げられた腕は、力を失ってベットから投げ出され、重力に呼ばれ落ち、床に当たって微かに跳ね返った。その時、指先を何か柔らかいものが撫で、その瞬間に彼の意識は明瞭さを取り戻した。


 その指ざわりは鳥肌が立つほど不気味で、彼は飛び起き、ベットの下に何か虫のような大きなものがいること、そして、その、下から徐々に光を取り戻すようなグラデーションの黒い瞳が彼を見つめている事を確認した。


 彼は悲鳴もそこそこに部屋を、家を順に飛び出して、逃げるように森の中に飛び込んでいったのだ。


 自転車のペダルを後ろ向きに回した時のような、カラカラ、きぃきぃという音を立てながら、それは追いかけてきていた。後ろを振り返らなくても分かる。

 木々の抱擁を薙ぎ払って、寝巻きの裾を土に汚し、乾いた息を悲鳴混じりに吐きながら走った。きっと、止まってはいけないという本能的な直感だけが足を動かしていた。


「あ」


 しかし、寝起き間もなく目を覚まし、走らされていた足がもつれ、男はついに地面に倒れ込んだ。地面に転がっていた小粒の石が、唇の端に当たってピリ、と痛みを残す。


 地面に手をつき、急いで立ち上がろうとした男は、追跡者の姿を日の元でしかと見、言葉を失った。


 8歳の子供のような背丈の生き物だった。2つのアーモンド型の瞳は、ベット下で見たように、黒々としたグラデーションだった。全体像はまるで蛾のようで、広げられた羽も、胴体も、フサフサとした白い毛で覆われていた。蚕のように見えた。胴体についている脚は8本ほどと多く、そのうちの1番上の一対の足は、他の6本よりも大きく、子供の腕のようだった。


 そして1番気味が悪かったのは、その口らしきところからクルクルと伸びる、ストローのような器官だった。蝶々が花の蜜を吸う時に用いる器官と同じものに思えたが、このイキモノの大きさと、何処かおかしな風貌では、ツルのような、あるいは小象の鼻のようなそれは顔色を失うくらいには気味が悪かった。


 宙に浮いて、鱗粉を飛ばしながら悠然と羽を揺らしていたそれは、固まっていた男にゆったりと近づき、胸上で止まった。寒気がするほどくすぐったく、太い腕が胸を抑えると、金縛りの時に感じていたような息苦しさを感じた。眼前に近づく瞳はジッと男を見ていて、みずみずしさを含んだ新緑の葉がもがれた時の、酸っぱいような甘いような奇妙な匂いがした。それはこのイキモノの吐息なのだろうか、と現実逃避に男はボンヤリと考えていた。


 男の目の前で、ストローのような物が、波打つようにグネグネと、水揚げされた魚の如く激しく動き回り、男の頬を時折ピシャリと叩き、ふいにその先端が男の額にコツンと当たった。逃げたいのに、いつものように身体が動かず、さらに今回は目も閉じることが出来ない。

 

 瞬きを二度ほどした後に、男の意識はまた失いかけていた。今までの、掃除機か何かで吸い込まれるような遠ざかり方ではなく、今度はストローで吸い上げられているようだった。

 ぐるぐると視界が回り、吐き気が込み上げる。手や足の先は冷え、感覚が鈍くなって、男の呼吸は浅くなっていった。今までの時間泥棒はこいつだったのだろう。


 鳥一羽鳴かない静かな森の中で、さっきまで抱擁を乱雑に跳ね除けた男を笑うように、枝たちが風で揺れ、カタカタと笑い声のような音を立てた。

 

 それを聞きながら、男は、嚥下するように、あるいは呼吸するように動く、眼前のイキモノの腹部を眺め、ついには糸が切れたように意識を全て手放した。


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イキモノ ズカン 夢星 一 @yumenoyume

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