水のイキモノ
蜜金魚の涙
6センチほどの大きさしかないこの金魚が、いったいいつから金魚鉢で泳いでいるのか男は思い出せなかった。
小学校のころ、近くの小学校で行われた夏祭りの金魚すくいで手に入れた気もするし、父親が突然お土産だ! と言いながら連れてきた気がする。どちらにせよ長生きなのは違いなかった。
「いいよな。お前は」
餌の入った小さなボトルから、付属のスプーンで二杯。餌を金魚鉢に入れれば、パクパクと口を開きながら金魚は餌を食べる。
親は二人とも仕事に出かけ、家に残る男が、金魚の世話係だった。赤くキラキラと輝く鱗の中に、ハチミツのような色が混じっているこの金魚に、男は「ミツ」と名付けていた。
「こうやって朝になれば餌をもらえて、家の掃除もしてもらえて。そろそろ仕事見つけて一人暮らししたら? って言われることもないもんなぁ」
玄関先の地べたに置かれた金魚鉢を隣に置き、男は三角座りをしながら、軽く金魚鉢を突く。中で金魚がゆるりと泳いだ。
「でもさ、俺がいなかったら、お前のこの悠々自適な生活はすぐに終わるぜ。
だってお前の世話係は俺だからな。俺がいなきゃ成立しないんだ」
金魚は泳ぐのをやめた。黒々としたビーズのような目がこちらを見ている気がして、男は視線をふいと逸らした。
「最近、ぼーっとすること増えてさ、気が付いたら行動してんだよな。あれ、俺何してたっけ? って、まずいよな。外に出るべきだよな多分」
男は膝を抱える両腕の間に顔を埋め、隙間から見える景色を眺めた。
深爪気味の足の爪を隠すように、丸められた裸足のつま先。玄関先にある靴は、どれも親が使うものだった。男の使う靴は、隅に追いやられて、寝落ちた酔っ払いのようにだらしなく壁にもたれかかって置かれていた。
外に出ようと思えばすぐに出られる距離なのに、やけに玄関のドアが重々しく見えた。
金魚はゆったりと円を描きながら泳いでいる。男の話を聞いているのかよく分からない。いや、そもそも金魚が話を聞くわけがない。男は黙って立ち上がった。
「どっかには行きたいんだけどなあ」
古くて急な階段を、一歩一歩軋ませながら登って男は部屋に入った。
朝日の差し込む殺風景な部屋を、何の気もなしに眺める。ベッドの上にはしわくちゃになったタオルが置かれていた。昨日風呂上りに髪を拭くのに使って放置したままのタオルだった。
タオルを手に取って絞る。
タオルが細くなる。
ドアノブを見る。
タオルを見る。
首を触る。
**
真っ赤なひらひらが視界を泳ぐ。ポコポコと口から泡が出る。喉がひりひりした。
ああ、これは夢だと男はすぐに悟る。それにしても、自分はいつ寝たのだろう?
突然、泣いているような声が聞こえた。いや、はっきりと声がしたわけではないのだが、誰かが泣いているという空気の震えが男の耳に伝わった。
赤色が視界いっぱいに広がったかと思うと、男の顔に両手が添えられ、顔をあげさせられた。女性が泣いている。少女のように幼くも見えるし、人生経験積んだ大人にも見える人だった。
真っ赤なワンピースを揺蕩わせて、ハチミツのような色の瞳で男を見ていた。怒りと悲しみの混ざった目である。
何か言いたげにパクパクと開かれる口が金魚のようだった。
涙が男の顔に降りかかる。その涙は、彼女のハチミツ色の瞳そのものを溶かしているかのようにドロッとしていた。
なぜ泣いているのか分からず、呆然とした男の瞼に、額に、ドロッとした涙がこぼれ、ゆっくりとほほを伝って落ちていく。唇の端を流れたそれを舐めると、ハチミツのように甘かった。
ああそうか。と男は理解する。想像以上に若い見た目だが、この子は、この泣いている金魚のような服を着た女性は。
「ミツ」
男がかすれた声を出すと、またハチミツが降ってきた。
**
男が目を覚ます。なぜかドアにもたれかかっていた体を起こそうとすると、首が締まって、ぐぅと声を漏らした。
手さぐりに、ドアノブに巻き付いたタオルを外して、荒々しく部屋の隅に投げ捨てる。自分のしていたことが信じられずに喉を触った。
男は息を整えてさっきまで見ていた不思議な、短い夢のことを思い、唇を舐めた。
リップクリームなど塗っていないはずの男の唇は、しっとりとして、それでいて甘かった。
一つ思い出したことがあった。
あの金魚は、男が中学生の時に、金魚すくいをやるだけやって飼う気のなかった親戚の子供から、男が引き取った金魚だった。
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