ペンギンとの青の旅

 店に入るとベルが鳴る。

 グラスの中で氷を揺らしたような爽快な音が店内に響くと、すぐに店の奥から、はぁい、と若干しゃがれた声がする。


 飛行機やら、太陽やら、そしてすぐ近くに、海藻やクラゲの飾りが天井から吊るされた店内を、客は入口に立ったまま見渡した。

 また飾りが増えている。


 木製の家具で揃えられた店内は、店というよりは少しおしゃれな家のリビングと言ったほうが近く、入口のそばに置かれたカウンターと、その上にあるメニューが、かろうじて店感を出していた。

 メニューといっても、

[空の旅:90分コース(魚3匹)/180分コース(魚6匹)

 海の旅:90分コース(魚3匹)/180分コース(魚6匹)]


 と書かれているだけの、シンプルなものだ。


 まだ肩書だけが成人になったばかりの、若い客人は、右手に持ったビニール袋をチラリとみた。今朝獲れたばかりの、新鮮な魚が5匹入っていた。


「ごめんなさいね、待たせちゃって。おや、数か月ぶりですね」


 ぺとぺとと足音を鳴らしながら店主は来た。きゅうきゅうと声に続いて音が鳴る。


「今日は海の旅ですか? いや、ですかね」

「魚の数が微妙なんだけど」

「五匹ですか。うーん、140分コースにしましょうか? お得意さんですしね、あなたは」

「ありがとう」


 客の腰元までの大きさの店主は、客から受け取ったビニール袋を、すぐさま店の奥に置かれた冷蔵庫へと持って行った。ここは先払い制なのである。


「では、早速行きますか。どの海がいいです? 瀬戸内海? 沖縄? グアテマラ? ハワイ? どこでもいいですよ」

「おまかせで」

「では、名もなき海へ! 私のおすすめですよ」


 店主はそう言って、胸元の蝶ネクタイを整え、彼のサイズに合わせたコート掛けからシルクハットを取り出して頭にかぶり、使い慣れたステッキをくるりと回した。

 こちらへ、と店主が店の奥へといざなう。後をついてほんの少し歩くと、廊下に出た。この奥は店主の個人の部屋で、用があるのはすぐそばにある2つのドアだ。


 右側のドアにつるされたドアプレートには「そら」、左のドアのドアプレートには「うみ」と書かれている。店主はうみと書かれたドアを開けた。目の前に、下へと続く階段が現われ、それを下りていく。


 下へ、下へと降りていくにつれて水が底から増えてきて、足元を濡らす。水が客の胸元まで迫るほど深く降りる頃には、店主はもう優雅にぷかぷかと浮いていた。

 ステッキをフワフワの腹の上にのせて、にっこりと笑って言う。


「それではね、行きましょうか」


 客は大きく息を吸って、水の中に潜った。

 全身が水につかるが、服は重たくならない。目を開けても、痛くはない。


「息を止めなくても、このツアーでは呼吸できますよ」

「分かってるよ。でも、なんか癖でさ」


 水中でふぅわりと上がった髪を、手でそっと整えながら客が笑うと、泡が口から洩れて上へと昇り、やがてはじけて消えた。

 上を見上げると、そこはもう部屋の天井ではなく、どこかの海の、遠い遠い水面があるだけだった。


「ここはどこ?」

「名もない場所ですよ。秘密です」

「あんまり魚がいないんだね。結構深いのかな」

「だってあなた、そっちのほうが好みでしょう?」


 キュイキュイと店主が笑う。客は少し驚いた顔をした後、そうだね。と小さく笑った。

 軽く水を蹴ると、すぅっと優しく体が進む。店主に倣って仰向けになると、かすかに光の漏れる、藍色の水面が遠くに見えた。水中は静かである。時折魚が、気にもせずに横切るだけであった。


「それで、今日はどんなことがあってきたんです。何か映画でも見たんですか」

「なんでそう思うの?」

「あなたがここに来るのは、たいていが何かを見聞きして、自分なりに考えて、その答えが迷子になって途方に暮れたときでしょう。わかりますよ、お得意さんですからね」

「すごいね」


 もう一蹴りして、水中を進み、客は口を開いた。


「本をね、読んだの」

「本ですか」

「40代くらいのサラリーマンが、何の特徴もない平凡なサラリーマンが、自分について悩んで、考えて、それで出た答えが――」

「絶望的なものだったんですか?」

「いや、すごくシックリ来たものだったの。なるほど、これが答えか! って、びっくりするほど納得がいって、それで、最後に自殺するの」

「ええ??」


 店主がくるりと回った。シルクハットを押さえて、なんでですか、と聞く。


「そうするのが一番自然だったんだよ。それで、死んだあとに死後の世界を見るんだけど、そこでも、特に面白いものはないなあ。死者ってあんがい、皆似たような顔をしてるな。って感想を抱いて話が終わるの」

「なかなか人を選びそうなお話で……それで、あなたはその人に自分を重ねたんですか」

「まあ、ちょっと思うところはあってさ」

「でも、その人は男の人でしょう」

「性別なんて、せいぜい染色体の違いに過ぎないよ」

「その人はあなたよりも年上じゃないですか。あなたはその人の半分くらいしか生きていないほど若い」

「でも、その人はいつかの私だよ」

「でも、あなたはまだ生きている」

「ただ死んでないってだけだよ」


 店主はうぅんと唸った。いや、唸るというよりは、ぷぅぷぅと鼻を鳴らした。納得がいかないが、人の話を否定するのもいけない。と悩んでいる様なそぶりだった。


「別にさ、めっちゃネガティブになったわけじゃないよ、疲れたから来ただけ」

「わかってますよ、あなたはそういう人だ。わかりますとも」


 若い客は笑いながら店主の体に手を伸ばし、自身の体の上に抱き上げた、ラッコの母親が、子ラッコを抱き上げるような形だった。

 なぜだかこの店主は、雛のようにフワフワした毛をしている。


 客がほう、と口を開くと、大きな泡が生まれて昇って行った。光がカーテンのようにゆぅらりとはためいて、水中を照らした。


「私ね、学校の水泳の時間、プールの底に沈むのが好きだったの。耳が一瞬痛くなるんだけど、それがまるで、膜を1枚破って、底の世界に入っていくときの証拠みたいでさ」

「膜ですか」

「うん。底だけの世界ってあると思うんだよね。周りでは同級生が、わいわいはしゃいでいるんだけどさ、底に行くと静かになるの。胸板が底に触れるくらい沈んで、そのままそこに寝転がりたくなるんだけど、浮力とかの都合で無理なんだよね。すぐに上がっちゃう」

「人間は海の生き物ではないですからね。難しいでしょう。そういえば、あなたが初めて来たときも、海底で寝転がりたいって言ってましたね」

「このツアーだと、人体の限界とかないからね」

「海が好きですねえ、あなたは」

「水が好きなの、考え事とか、疲れたときは水がいい。口から泡が漏れるときの音も、景色も好きなの」


 店主の腹をなでると、店主はくすぐったそうに笑った。


「それは嬉しいですね。でも、今度は空のツアーも選んでみてはどうですか。あなた、まだ選んだことがないでしょう。海のツアーと同じくらい素敵なものを提供しますよ」

「ペンギンって空飛べるの?」

「普通のペンギンは無理ですよ。でも、私はちょっとだけ非凡ですから。不思議なペンギンですからね、空も飛べるんです」

「おすすめの空は?」

「そうですねえ、いろいろありますけれども……そうだ! ねえ、今度の週末、店に来てくださいよ。素敵な朝焼けを見せてあげます」


 腹の上で店主が寝返りをうって、うつぶせになり、客と顔を合わせた。口ばしがコツンと客の顎に当たった。


「朝焼け? 夜空じゃなくて?」

「夜空も素敵ですけどね、海と色が似ているでしょう。たまには違う色を見ましょう。すっごくきれいな朝焼けです。あなただけの、スペシャルコースですよ!」

「ずいぶんとサービスしてくれるのね」

「お得意さんですから。それに私、あなたのこと結構好きなんです」


 店主が客のもとから離れ、ふっと上に浮かび上がる。

 いつものようにステッキを回しながら、自慢げに店主は胸を張って言った。




「どうですか、ペンギンと空を飛ぶっていうのも、けっこう粋なもんだと思いませんか?」

 

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