65話 いつもより大人っぽい彼女
十二月の第一週。木曜日。
俺は長野駅前のバスロータリーのベンチに座っていた。
一秒でも早く家に帰って横になりたい――そんな気持ちだった。
が、そんな疲労を抑えてこれから五十鈴の家に行くのである。
もう四時半を回っているし、そろそろ大河原さんの運転する車がやってくるだろう。
数分すると五十鈴からメッセージがあった。指示された通りに歩いていくと、道路端に黒い高級車が見えた。すばやく乗り込む。
「ふー……」
乗るなり、大きなため息が出た。
「お疲れさまでした、恭介先輩」
さっそく五十鈴が俺の頭を撫でてくれる。
「手応えはどうでした?」
「なんとも言えない……」
今日は専門学校の面接日だったのだ。俺が目指している学校は長野駅の東口から少し歩いた場所にあり、終わったらまっすぐここに向かってきた。
面接中のことは、正直あまり覚えていない。
投げられた質問に必死で返事をしていたのだが、頭の中はずっと真っ白でまるで記憶が残っていないのだ。
ただ、思ったよりは頑張れた……気がする。
「話したことないクラスメイトと話す時よりはマシだったかも」
「本当ですか? 第一声が「あっ、あう」みたいな感じにならなかったですか?」
「俺ってそんな感じになってるか?」
「ときどき」
「くっ……そこはたぶん大丈夫のはずだが」
もう一度、俺は息を吐き出した。
大河原さんも「お疲れさま」とねぎらってくれた。
「今日はうちでゆっくりしてください」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
今日だけは遠慮せず、そう答えた。
†
「では、ごゆっくり」
ハウスキーパーの中山さんがリビングを出て行き、俺と五十鈴だけの空間になった。
「どうぞ、先輩」
「いただきます」
ソファーに並んで座り、五十鈴の焼いたクッキーをいただく。ホットコーヒーを口にすると気分が落ち着いた。
修介さんと泉美さんは仕事だからいないし、中山さんも最低限のことしか話さない。大河原さんはまた別の部屋で休んでいる。平日の玉村家は静かだ。
「はあ……」
「ため息が多いですね。先輩は頑張ったんですから、あとは天に祈りましょう」
「そうだな。頭ではわかってるつもりなんだが」
「引きずるタイプですもんね」
「まったく」
俺は苦笑いするしかない。
「五十鈴のほうはどうなんだ? 最近も絵は描いてるのか?」
「毎日コツコツやっています。出版社のイラストコンテストにも応募しました」
「すごいな。どこの会社だ?」
「
「聞いたことあるようなないような」
「先輩、あまり本を読まないですよね?」
「まあな」
「だったら知らなくても無理はありません」
「賞をもらったらなにかあるのか?」
「プロを名乗れます。それがきっかけでイラストのお仕事が来るようになるかもしれません」
「おお、いいじゃないか」
家で仕事ができるのなら、五十鈴にとってこれほどいいことはない。
「他にもいろんな出版社が定期的にコンテストを開催しているので、順番に送っていくつもりです」
「清明祭のポスターは漫画とリアルの中間くらいの絵だったな。全部ああいう感じか?」
「描き分けできます。風景だけでもラノベみたいなキャラのピンでも」
「ラノベ……?」
「漫画っぽいイラストのついた小説です。先輩の趣味には合わないかな……」
五十鈴はそれ以上踏み込まなかった。あとで調べてみよう。
「なんだか、わたしの話ばかりしてません?」
「俺も一歩進んだから、五十鈴のことも気になるんだ」
「先輩もわたしも結果待ち中。お互いにうまくいくといいですね」
「そうなったら最高だ」
二人でコーヒーを口にする。
「こうしてると疲れが抜けていく気がする」
「いいことです。自分の家だと思ってのんびりしてください」
「横になってもいいか?」
「あ、それは駄目です」
「だよな……」
「まだコーヒーを飲んだばかりですから、もう少ししてから」
そういう意味だったか。早とちりしてしまって恥ずかしくなった。
五十鈴が寄ってきて、お互いの腕が触れ合う。
「本当なら先輩に寄りかかってもらいたいんですけど、そうするとつぶれちゃいますからね」
「体格差がな。いつものように、五十鈴が寄りかかってくれ」
「そんな。疲れているのは先輩じゃないですか」
「いいんだ。五十鈴に触れてもらうと安心するから。頼む」
「……わかりました」
五十鈴が体を傾け、俺の右腕に頭を当てた。小さな両手で、俺の右手を包んでくれる。柔らかな手の感触。俺の心は満たされていく。
「よく頑張りましたね、恭介先輩」
「うん。頑張った」
「あら、てっきり上から目線だなって言ってくると思ったのに」
「そういう風にねぎらってほしかったんだ」
「頑張れてえらいですよ」
「ありがとう」
簡単な言葉だが、五十鈴の声は胸に染み渡る。全力は出し切った。あとは結果を待つのみだ。
「先輩」
「なんだ」
「キス……してあげましょうか?」
「えっ」
唐突な提案に、一瞬体が固まる。
しかし拒む理由など存在しない。
「五十鈴がいいのなら、してほしい」
「ほっぺですよ」
「ああ……」
ちょっと予想を外された。口にしてくれるものとばかり……。
「もし合格したら、その時は口にしてあげます」
「そういうことか。合格しててほしいな」
「わたしも期待しています」
五十鈴が腕から離れた。俺は少し、彼女のほうに体を傾ける。
右の頬に、五十鈴が口づけをしてくれた。
しっとりして温かな唇。
キスは過去にもしてもらった。けれど毎回ドキドキする。体がすぐ熱くなってしまう。まだまだ俺はウブなのだ。
今日は今までより長かった。じっくり時間をかけて触れてから、五十鈴が顔を離す。柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
「顔が赤くなってますよ、先輩」
「そういう五十鈴だって」
「……ふふ、やっぱりわたしも緊張しちゃいます」
五十鈴は頬を赤く染めながらも、右手で自分の唇に触れた。その仕草がやけに大人びて感じられ、俺の胸はまた高鳴った。
「ちゃんと合格して、次は唇にさせてくださいね?」
そう言って笑う五十鈴の表情も、なんだかいつもより大人っぽく見えた気がした。
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