第2話
次に覚醒した時、彼は雑踏の中にあった。
机に突っ伏していた彼は顔を上げ、周囲を見回す。騒ぎ声を上げているのは、学生服を着た者たちだった。整然と並べられた机、正面に見える黒板から、そこが教室内であることが彼にはすぐに分かった。
彼が座るのは、窓際の最も後方の席。開け広げられた窓から生ぬるい風が漂い、カーテンが僅かに揺らめいている。雨は降っていないようだが、今にも降り出しそうなほどに湿った空気を帯び、どんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。
遠くの曇天に稲光が見えた瞬間、彼の脳裏にはまたしても、フラッシュバックのような現象が起こった。
踏切を渡り、改札を抜け、階段を上って駅のホームへ向かう何者かの後ろ姿。寒い冬の季節で、歩く度に口元から白い息が吐き出されている。灰色のマフラーで口元を覆いながら列車を待つ男の目の前を、通過列車が勢いよく通り過ぎてゆく。列車内を照らす光が断続的にちかちかと視界の中を走り抜け、それが去ってしまう頃、彼の意識は現実に引き戻された。
まもなくしてジャージ姿の男が教室に姿を現すと、学生服の者たちは慌ただしく席につき、ホームルームが開始された。教卓に立ったその男は連絡事項を伝えただけで、五分としない間に生徒たちは解放となった。
散り散りに教室を去る者たちを見送りながら、彼は途方に暮れていた。友人らしき人物が彼の元へ近寄り、一緒に帰宅するよう促したが、彼は曖昧な返答で濁しながら手洗い場に駆け込み、自身の姿を鏡で確認した。
鏡に映っていたのは、またしてもあの少年だった。相変わらず左右の目のバランスが悪い彼は皆と同じ学生服を纏い、髪に少しばかりの整髪料が塗られている。身体をくるりと回転させたが、特に異常のようなものは見られず、単に小便に訪れた学生が鏡の前で身だしなみを整えているようにしか映らなかった。
私は、この少年なのか?
しかしながら、自分が目の前の少年ではないという奇妙な確信が彼にはあった。今とは全く別の容姿を持ち、自我を持った人間だった。それもこのような少年ではなく、もっと歳のいった者であるように彼には思えてならなかった。
手洗い場を出た彼は、こっそりと一人で校舎を抜け出し、町内を歩いて回った。途中で見かけた公園に立ち寄り、ベンチに腰かけて鞄の中を探ると、学生証に住所が記載されている。今の彼が帰るべき家は、ひとまず確保できたわけだが。
次に携帯電話を取り出し、日付を確認した。先日の夜、目を覚ました際に確認した五月十四日から、およそ二週間が経過していた。
……なるほど。私は中学一年生か。
鞄の中にあった教科書を捲ると、ひどく懐かしい心地がした。この程度の問題ならば今さら教育を受けるまでもないと感じている辺り、やはり彼が以前に宿していた身体は今よりも随分と歳を取っていたのだと思えた。
教科書から顔を上げ、曇天の隙間にやや赤みがかった太陽が姿を見せると、その拍子に以前の記憶が怒涛の如く勢いで彼の中に流れ込んだ。
パソコンの並ぶ室内でモニターを覗きながら、キーボードを叩く姿。満員電車でつり革を握る姿、階段を駆け上がる姿、重い足取りで夜道を歩く姿、それらのひどく疲れ果てた後ろ姿が素早く場面転換され、自宅の扉を開いた瞬間に、視点が一人称に切り替わった。
短い廊下を抜けた先には、彼の帰宅を待つ家族の姿があった。遊園地、水族館、レストラン、車の助手席を垣間見る視線へと移ろい、ある時には妻の顔が、またある時には息子や娘たちの姿が見えた。
時系列は順不同で、子供の姿が幼かったり、成長した姿になっていたりしたが、不思議と面影を見るだけでそれが同一人物であるということが分かった。
私は、家族を持っていた――。
どういった理由でこの身体に魂が宿ってしまったのか。果たして、本来の身体に戻ることはできるのだろうか。
それには、以前の記憶が未だ乏しい。彼は本来の自分自身を探すべきだと感じていた。そこにはもしかすると、自分とはまた別の人格がその身に宿っているかもしれない。その場合は、互いに一目見れば理解できるだろうか。
分からぬことが多すぎる状況下で、彼はあまりに非力だった。中学一年生という立場では自由に動ける場所も少なく、持てる資金もない。まずは情報を収集しつつ、この少年の立場で生き続けるしか術はないのだろうか。
あれこれと考えている間に、腹の虫が催促の唸り声を出し始めた。彼は腰かけたベンチから立ち上がり、記載された住所を目指して歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます