第二部

第1話

 目が覚めた時、机に突っ伏していた彼は室内を包む雑音に顔をしかめた。


 上体を起こして瞼を擦り、唸り声をあげながら右方向へ視線を遣るとスマートフォンが横たわっている。電子音交じりの不快な女の歌声はそこから流れ出ていた。


 持ち上げた拍子に画面がふっと明るくなり、中央に見える二本の縦線に指で触れると、心臓に悪そうな激しい振動が止んだ。


 壁際に置かれた机は卓上のスタンドライトが灯され、室内の電気はついていない。そこだけ照明を当てられた舞台上のように明暗の差が生まれ、ひっそりと静まり返った暗闇には何者かが身を潜めてこちらを窺っているような不気味さが感じられたが、見つめ続けていても何かが姿を現すような気配はなかった。


 机に向き直った彼は、机上の端に積み上げられた漫画本や食べかけのスナック菓子を眺め、ひどく雑然とした様子に舌打ちをした。


 どこだ、ここは……?


 記憶が曖昧だった。彼は目を閉じてここへ至るまでの経緯を思い出そうと試みたが、何か白い靄のようなものが瞼の裏の視界を覆い、脳への干渉を妨げている。


 そこへ突如、閃光のごとく鋭い光の膨張が起きると、靄が晴れて広い空間が現れた。一面が白く覆われ、奥行の定かでないその場所では、前方に何者かの後ろ姿が見られた。腰はすっかり折れ曲がり、今にもその場に倒れ込みそうな弱々しい足取りで、その者は歩みを進めている。


 彼は目を開くと、改めて机の上を眺めた。


 懐かしき木製の学習机には英語の辞書や図鑑などの書籍が並び、その隣へ順に鉛筆立て、鉛筆削り、卓上カレンダー、スタンドライト、中央の手前には白紙の学習ノートが広げられている。


 カレンダーを見た彼は、咄嗟に机の上に置かれた携帯電話を手にした。液晶に映し出された日付は、五月十四日。今度はカレンダーを手に取ってぱらぱらとページを遡ると、四月の上旬に丸印で囲まれた日付があり、『入学式』と蛍光ペンで記入されている。


 立ち上がった彼は壁に沿って数歩移動し、カーテンを開いた。外の世界はすっかり日が暮れており、等間隔に配置された外灯が左右に伸びた道路を点々と照らしている。


 窓を開けると、雨がしとしと降っている様子が薄っすらと伺えた。表を歩く者の姿が鮮やかな色合いの丸い傘の形に隠れ、去り際に後ろ姿をちらりと覗かせる。どうやらここは二階であるようだが、眼下の景色に見覚えはなかった。


 室内の様子を見るため、電気のスイッチを探そうと彼が入口へ向かって一歩踏み出したちょうどその時、扉をノックする音が聞こえてきた。


「陸、ご飯できたわよ」


 彼は咄嗟に後ずさりし、窓枠に背をつけたまま、扉をじっと睨みつけた。


 さらに続けて扉が叩かれ、「ねぇ、宿題してるの?」と、声の主は室内に向けて問いかけている。


 どうしたものかと彼がその場で身体を強張らせていると、返事を待たずに扉を開いた声の主は、中の様子を窺い始めた。


「なんだ、いるじゃない。ちゃんと返事しなさいよ」


 光の中から現れた女は、彼の姿を見てそう言った。


 ……見覚えのない女だ。


 肩まで伸びた茶髪、楽そうな室内着姿。化粧っけはなく、まさに今、家事をこなしてきたとでも言わんばかりの風情があった。


 彼女は続けて、「何よ、電気もつけないで」と言いながら室内を見回し、すぐ隣にあった電気のスイッチをつけた。


 室内が明るくなると、途端に瞼が痺れるような感覚が起き、彼はきつく目を閉じた。その拍子に頭に浮かんで来たのは、病室のような場面だった。


 彼は個室のベッドで枕に背を当て、窓外に降りしきる雨を眺めている。視界の端には暖かな色合いのガーベラが飾られていた。窓とは反対方向からノックの音が聞こえ、そちらへ彼が振り返った瞬間、唐突に映像は途切れた。


 目を開くと、先ほどの女が扉の辺りに立っていた。


 室内の床やベッドの上には脱ぎ散らかした衣服、プリント用紙などが散乱しているのが見え、彼女は思わず深いため息をついた。


「もう中学生なんだから、自分の部屋ぐらい自分で片づけなさいよ。お母さんは絶対片づけないからね」


 憤った様子の彼女は腰に手を当て、「とりあえずご飯できたから、早く降りてきなさい。後でちゃんと片づけること」と言い残し、扉を離れた。


 視界から消えた彼女が勢いよく階段を降りていく足音が、室内まで響いている。


 再び静まり返ったところで、彼はほっと胸をなでおろした。確かにひどい惨状だ、まるで足の踏み場もない。六畳ほどの室内がひどく狭苦しく感じられた。


 ひとまず床の上に散らばったものをベッドの上に移動させながら、彼は改めて室内を見渡した。本棚にはびっしりと漫画本が並び、その上に地球儀が一つ置かれている。その隣にはハンガーに掛けられた真新しい学生服、壁には若い女のポスターが貼られていた。


 床に落ちた学生証を拾うと、そこには見たこともない少年の顔があった。左右の目の大きさの調和が取れておらず、失敗した自画像のようにどこか歪な顔だった。


 名前は、花沢陸。中学校の学生証のようだ。なぜ先ほどの女は、この少年と彼を見間違えたのか。


 そもそも、私は誰だ?


「陸! 何回言わせるの!」


 階下から、先ほどの女性の叫び声が聞こえてきた。


 身体をびくりと強張らせ、彼は入口の方へ視線を遣った。言われた通り、階下へ降りた方が良いのだろうか。それとも、こっそりと逃げ出した方が良いのか。


 彼は窓際に移動し、真下を眺めた。足場となりそうな物もなく、ここから抜け出すのは難しいようだった。


 他に仕様がないので、彼は階下に下りてみようと思った。何かの勘違いであるならばきちんと説明を行い、まずは誤解を解く必要がある。


 窓を閉めた彼は、続けてカーテンを閉めようとしたところで違和感を覚えた。窓に反射されて映ったのは、ある意味では見覚えのある姿と言えようか。


 彼は自身の頬に手を触れ、まじまじと窓に映った顔を眺めた。それはつい先ほど彼が手にした、学生証に写っている少年の姿だった。


 そこでぷつりと意識が途切れ、視界が暗転したのち、再び彼は光に包まれた空間に立っていた。遠ざかる老人の後ろ姿を目で追いながら、彼はゆっくりとその場に倒れ込んだ。

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