第4話

 陸は足を進め、ひとまず歌ヶ浜を目指した。そのまま遊覧船に乗ってしまっても良かったが、あの眩しい湖面の上に自分がいることを想像すると、それも少し憚られた。


「確か、この辺だったか」


 歌が浜駐車場を通り抜け、彼は道路を直進してイタリア大使館別荘記念公園を目指すことにした。


 もとは一九二八年にアントニン・レーモンドが設計したイタリアの大使館別荘で、一九九七年までは夏になるとイタリア大使がそこを訪れていた。”夏には外務省が日光へ移る”と言われるほどに他国の外交官たちもこぞって奥日光を訪れ、付近には様々な国の別荘地跡が隣接している。


 彼がそこを以前に訪れたのは、もう随分と前のことだった。その頃はまだ花沢陸などいう名前ではなく、これほど幼い身体でもなかった。


 道路の端を歩いていると、時おり車が通り過ぎていくものの、周辺は静まり返っており、喧噪に満ちた都会の環境とは世界が違っていた。


 山の斜面に動くものが見え、陸がそちらに視線を遣ると、二匹の猿が奇声を上げながら互いを殴り合っていた。劣勢な一匹がその場を去ると、それを追うようにもう一匹が山の中へ駆けて行く。


 どこを訪れようと、生き物のエゴを垣間見る瞬間はどうにも避けようがないものかと、陸は気分を落とした。


「英国大使館別荘、記念公園……」


 イタリア大使館別荘を目指している途中に、陸はそんな立て看板を発見した。以前に訪れた時は、確か英国大使館別荘はまだ健在だった。彼は思わず携帯電話をポケットから取り出すと、インターネットで検索を始めていた。


 すっかり現代社会に染まってしまったものだな。


 こちらはイギリスの外交官として奥日光を訪れた、アーネスト・サトウが一八九六年に建てた個人別荘地だった。その後は英国大使館別荘地として二〇〇八年まで使用され、現在は記念公園と称して当時の間取りを復元した展示室とカフェが併設されている。


「こちらへ行ってみようか」


 道路の横に並行して延びた小道を抜け、陸は英国大使館別荘記念公園に向けて歩き進んだ。


 到着するとそこは森の中に佇む二階建てのモダンな建物で、湖を望む一面はすべて壁が取っ払われ、ソファが並べられている。前面には砂利で覆われた庭のような空間が広がり、そこに立ってカメラを手に風景を撮影する観光客の姿が見られた。


 背後には森林、前方には湖、何とも良い塩梅であることか。自身も箱根に別荘地を所有した経験のある彼は、これほどの好立地に再び巡り合えたことをどこか喜ばしく感じていた。


 入館料は大人が二百円、小人が百円だった。彼が年齢を伝えると、館内で案内係をしている栃木訛りの中年男性が中学生までは百円だと教えてくれた。


 受付で百円を支払い、建物の中に入ると思いのほか壁や装飾が真新しかった。もう少し年季の入った施設を想像していただけに残念な気持ちでいっぱいだったが、二階から見える絶景については納得せざるを得なかった。


 周囲を取り囲む山々、森林、中央で輝きを放つ湖面。旅館から眺める景色には余計な障害物が否応なく含まれていたが、ここから眺める視界にはそういった物が一切排除され、まるで額縁におさまった絵画のように美しかった。


 二階の奥に併設されたカフェが営業しており、スコーンや紅茶の上品な香りが漂っている。両親から定期的に小遣いは頂いているものの、自身が無駄遣いすることに気が引けた彼はそちらには立ち入らず、廊下部分に置かれたソファに腰かけて景色を眺めた。


 とてつもなく、静かだった。


 周囲に人の姿がなければ、時間が止まったようにすら感じてしまいそうだ。陸はソファに身体を埋め、瞳を閉じた。風が気持ちよく流れ、肌を撫でつける。


 ゆっくり目を開くと、小ぶりの蜜蜂が緩やかに宙を漂っていた。庭に生えた花の蜜を吸いに来たのだろうか。


 この感覚を、共有できれば良かった。


 陸は鞄から手鏡を取り出し、裏面の装飾を眺めた。達央の彫り物はやはり一級品だ。陽の下で見ると、それは今にも庭の方へ飛び出していきそうなほどに臨場感を帯びている。


 続いて彼は、鏡を返して自身の顔を眺めた。左右の目のバランスが悪い、中学生の少年。それが今の彼の姿だ。


 周期的に行われる魂の入れ替えも――身体の持ち主と彼の人格が入れ替わる現象を、彼は個人的にそう呼んでいる――、今では彼でいる時間の方が圧倒的に長くなっていた。彼にはそれが他人の魂を食い荒らすような行為に思え、目を覚ますたび罪悪感に苛まれた。


 前途有望な若者の中に他人が入り込み、当人に成りすますなど、あってはならぬことだ。けれど、どういった理由で彼が魂の割り込みのような真似を可能にするのか、いくら調べても分からなかった。


 自身の魂がいつ欠落しても違和感なく身体を返せるよう、彼は常に持ち主の希望に耳を傾けてきた。持ち主が興味を抱いた形跡のある科目には全力で取り組み、寝室に野球のミットがあれば素振りや体力づくりに励む。


 それでも、やはり問題は対人関係だった。特に恋愛関係においては持ち主の彼自身が経験しなければ意味がなく、入れ替わりの直後には事情が分からず周囲を戸惑わせることも多々あった。


 まもなく浸食が完了し、彼でいる時間だけが残されてしまう。仮にそうなったら、持ち主の魂はどこへ行くのだろうか。深い眠りに就くのか、それとも消滅してしまうのか。内部で持ち主が戸惑いと怖れに怯えているのではないかと、彼は気が気でなかった。


 どうにかして、身体を取り戻しにやって来てはくれないか?


 彼は、生きる価値が見出せなかった。私の魂を、誰か浄化してはくれないだろうか。これは罰なのか? 償いなのか?


 眼前に映る景色は淀んだ彼の魂とは対照的に、日が昇ると輝きを増していく。まるで太陽から祝福を受けているようではないか。


 ……あぁ。やはりここが良い。裁きには、最適な場所だ。


 悩みに悩み、彼が導き出した結論は、狂気に近いものだった。


 推論はいくつも立ててきた。彼の身体を傷つけず、自身の魂を損なう方法はないだろうかと何度も思案した。


 やはりこのやり方が、最も相応しい。


 持ち主の魂が戻るという確証はない。それでも、これ以外に彼は取るべき方法が思い浮かばなかった。何より、時間も差し迫っている。この機を逃すと、彼の精神は崩壊してしまうかもしれない。


 彼は鞄から水の入ったペットボトルを取り出した。これは旅館のサービスで冷蔵庫に入っていたものを拝借した。続いて彼が取り出したのは、小瓶に納まった白い粉末だった。彼はそれを口に含み、勢いよく水で流し込んだ。


 あとは待つだけだ。上手くいけば、君に身体を返せるだろう。しかし、共に終わりを迎えても文句は言わないでくれたまえ。僕らはすでに、運命共同体なのだから。


 彼はソファに埋もれたまま鏡を握りしめ、徐々に虚ろになっていく意識のなか、煌めく湖面を黙って見つめていた。

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