第3話

 翌日は両親と周辺の観光に赴く予定だったが、朝になって陸は一人で近場を回りたいと申し出た。二人は渋い顔をしたものの、日奈子の店に行くと言うとあっさり承諾し、車に乗り込んでそそくさと東照宮の方へ出かけて行った。子守役には日奈子が適任だと感じたのだろう。


 彼らはもはや姉夫婦の元を訪れるつもりはないらしく、時間になったら一人で旅館の方へ戻ってくるようにと言われた。


「それじゃ、日奈子おばさんの迷惑にならないようにね」


「はい」


 旅館の入口を出たところで二人を見送ると、陸はひとまずロビーへ戻り、ラウンジでコーヒーを飲みながら無料で貸出をしている本を読んで過ごした。


 実のところ、彼は静かに一人で過ごせればどこだって良かった。とはいえ部屋に籠ると両親が過剰に心配するため、このように嘘をついた。


 窓外に映る中禅寺湖の水面は太陽光を浴び、昨日とは打って変わり生き生きとした表情を見せている。そんな眩しい姿に目を細めながら感慨にふける陸だったが、そばを通った男が彼を見つけると、「お父さんたちと出かけなかったのかい?」と問いかけてきた。


 それは先ほど両親がフロントで鍵を預けた際に対応をしていた旅館の従業員で、昨日部屋へ案内してくれた男とも同一人物だった。近くで見ると、随分と目が大きい。


「これから親戚と会うので、一緒に観光へ行くところです」


「そうか」


 微笑みかけた男は紙コップの補充とごみの片づけをし、その場を立ち去ろうとしたが、陸が手にした画集を見ると何かもの言いたげに彼を見つめていた。


「なにか?」と陸が尋ねると、彼はオイルで固めた髪を撫でつけながら、「いや、その画集ってさ、どう?」と言った。


 陸は手に持った画集を見遣り、その後で彼の方へ再度向き直ると、「悪くないですね。人物が活気に満ちています」と言った。「これなんて、ほら――」


 陸が捲ったページには、森林の中で宙に浮かぶボールへ向かって躍動する女性の絵画が描かれていた。右手を天に伸ばしながら跳躍する彼女は、今まさにボールを叩きつけようとしている。背後に描かれた一本の白い樹木が印象的で、その繊細な美しさと、目の前でしなやかに身体を折り曲げた彼女の力強さが良く調和されていた。


「あぁ、それか」


 男はページをじっと覗き込み、それを真剣な表情で見つめている。


「……バレーボール、でしょうか。どうしてこんな所でする必要があるのか、些細な不明点は残りますが、絵画としては魅力を感じますね」


「君は、随分と大人びた話し方をするんだな」


 男は苦笑いを浮かべ、「どこかの評論家みたいに見えてくる」


「いえ、そんなことは……」


「でも、描きたかったことが伝わっているようで、描き手としては嬉しく思うよ」


「描き手?」


 陸は首を傾げて彼を見つめ、「ひょっとして、これはあなたが?」


「もう随分前に描いたものだけどね。あの頃は必死に絵のことばかりを考えて過ごしてきたよ。そういう画集が出せるまでにもなった。――彼女のおかげかな」


 そう答えた男は、今度は愛おしそうに絵画の女性を眺めていた。


 あぁ、この眼差し。なんと懐かしいものだろうか。


「今は、描いていないのですか?」


 陸は仲居姿の彼を眺め、遠慮気味にそう問いかけた。……いや、問いかけるまでもない質問だった。大成した者ならば、このような場所で働いているはずがないのだから。


 そう思うと前述の質問を彼は少しばかり後悔した。だが、男は微笑みながら、「描いてるよ。まだまだ諦めたつもりはないから」と答えた。


「…………」


「恥ずかしい話だけど、僕は親のすねかじりみたいなものでね、お金に困ると父親にホテル関係の仕事を紹介してもらって、今はこの旅館に流れ着いた感じ」


「現在の職業は、つなぎということですか?」


「はは。手厳しいな」


 男は首筋の辺りをぽりぽりと掻き、「夢を追いかけるにも、生活はしていかなきゃならないってことさ。僕みたいに少しずつしか前に進めない人間なら、なおさらね」


 陸は、男を子細に観察していた。


 姿勢が正しく、逞しい身体つきをしていた。指先は丹念に爪の手入れがされている。なにより男の瞳は、未だ輝きを失っていない。


 陸は知っている。挫折した者の瞳を。夢に敗れた者の抱える闇を。そして、生きることに希望を見出せない者が放つ中性的な脱力感を。


「それでも――」


 陸は一度言葉を詰まらせたあと、「それでも、何かに挑戦しながら、こんな高級旅館で働けているのは誇らしいことです」


 すると男は、少し驚いたように大きな目を見開き、「参ったな」と呟いた。


「君はうちの父親と同じことを言うんだね」


 父親。そうだったな。私も数年前までは……。


「あぁ…。そうですか」


 陸が次に繋ぐ言葉を探していると、遠くから誰かの呼び声が聞こえてきた。


「あ、ごめん。お客さん来ちゃったから、もう行かなきゃ。それじゃね」


 男は素早くごみを片すと、次の宿泊客を出迎えに急いでその場を去った。


 あの男とすぐにまた顔を合わせるのが嫌で、陸は旅館から出ることにした。


 達央の店の前を訪れると、彼は相も変わらず彫り物に夢中で、こちらには気づいていない。彼は引っかき刀を用いながら、繊細な模様を淡々と描いていく。父親は本心で言ったわけではないのだろうが、確かに職人の腕には目を惹かれるものがある。


 この男も、不器用なものだ。


 彼らは不格好ながらも必死にもがき、一度しかない生を懸命に燃やそうとしている。それなのに、私は――。


「あら? 陸くん?」


 店の奥から現れた日奈子が、彼に気づいて声を掛けてきた。それにつられて達央も顔を上げると、陸に向かって小さく微笑みかけた。


「あらあら、一人で来たの? 汐里は?」


 表に出てきた日奈子は、きょろきょろと周囲を見回しながら言った。


 陸は進行方向を指差し、「歌ヶ浜で遊覧船を待ってますよ。まだ少し時間があったので、僕は少し様子を見に来ました」と答えた。


「……あぁ、そうだったの」


 日奈子は安心したようにため息を漏らし、腕時計を確認しながら、「遊覧船って、次は何時だったかしら。ちょっと待ってね、何か飲み物でも飲んでいってよ」


 慌てて日奈子が店の中へ戻ろうとしたので、陸は彼女を呼び止め、「いえ、もうすぐ時間なので、僕は行きます」と言った。


 ガラス板の向こうで座っていた達央は立ち上がり、小さく頷きながら見送りをしようと店を出てきた。


「気をつけてな」


「はい」


 途中で後ろを振り返ると、二人は並んで寄り添いながら彼を見送っていた。


 ……私は、あれほどの愛情を持って、息子たちに接することが出来ていただろうか。

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