第2話

「――どうぞ」


 立ち上がった達央は近くにあった椅子を集めると二人に座るよう促し、店の表に掛かっている看板をひっくり返した。


 目の前を通った彼は思いのほか背が高く、見下ろすように陸へ視線を遣りながら、「陸は、もう中学生か」と静かに問いかけた。


「はい、来年は高校生になります」と陸が答えると、彼は顎の辺りに手を遣り、「早いもんだな」と呟いて両親のもとへ歩いて行った。


「あっ、達央さん! これお土産です」


 父親が手に持った風呂敷を手渡すと達央は頭を下げ、「開けてみても?」と問いかけた。


「もちろんですよ!」と応えながら、父親は強張った笑顔を浮かべている。


 達央が風呂敷を解くと、日本酒の瓶が二本現れた。彼はそれをじっと眺めた後、「ご丁寧にありがとうございます。後で一緒に頂きましょうか」と言った。


 しかしながら父親は、「いやぁ、旅館に食事がついてしまっているので、それほど長くはいられないんですよ」と困ったように答えた。


「……そうですか」


 達央に表情の変化は見られなかったが、店の奥へ酒瓶を持っていく後ろ姿は、どこか寂し気に映っていた。


 二階は夫婦の住まいのようだった。片付けを終えた日奈子が彼らを案内し、食卓を囲んでしばしの間会話を繰り広げた。大体のところは当り障りのない近況報告ばかりで、姉妹の二人が会話の主導権を握っていた。父親は時々合いの手をいれるように会話に参加していたが、達央という男はほとんど口を利かず、日奈子が出したお茶を静かに啜っていた。


「たっちゃんが怖い顔して彫り物してるから、奥の茶屋に全然お客さんが入って来てくれないんですよ」


「いやぁ、職人さんの腕には、目を惹かれるものがあると思いますけどねぇ」


 思ってもないことを口にする父親の言葉を嬉しそうに聞きながら、日奈子は首を振り、「私がしょっちゅう店の表に出て声掛けないと、そのうち店が潰れちゃいそう」


「じゃあじゃあ、お姉ちゃんのカフェを前に出して、奥を日光彫りコーナーにしたら?」


 さも良いことを思いついたように母親はそう提案したが、日奈子は困ったように表情を曇らせ、「集客を考えるとその方が良いんだろうけど、この形は先代からずっと続けてることだから、二人ともあまり変えたくはないの」と苦笑いを浮かべながら答えた。


 会話に参加する必要性を感じない陸は早々に食卓を離れると、室内に飾られた日光彫りの工芸品や、棚の上に置かれた老婆の写真を眺めていた。


「――陸は、節子さんには会ったことなかったか」


 いつの間にか陸の背後に立っていた達央は、写真を手に取りながらそう言った。


「ここは元々節子さんが日光彫りをやってた店で、東京から来た俺と日奈子を住み込みで働かせてくれたんだ。……随分と世話になったな」


 表情を見ると、珍しく達央が顔を綻ばせているのが分かった。陸は工芸品の手鏡を手に取り、裏面に彫られた花の模様を眺めた。一輪の朝顔の花が陰影を描き、繊細な曲線で彫られている。


「綺麗ですね」


「気に入ったのなら、やるよ」


 すでに無表情に戻っていた達央は、落ち着いた口調でそう言った。「男に手鏡っていうのも、似合わないか」


「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」


 陸は手鏡を裏返し、自身の顔を眺めた。二年前に比べ、少しばかり骨格が大人びたように感じられたが、それでも未だ、映っているのは幼い顔をしたあの少年の姿だった。


 姉夫婦と挨拶を交わして店を離れた陸と両親は、旅館で夕食を摂ってから温泉に浸かり、その後は部屋で寛いでいた。


 達央と日奈子。とても仲睦まじい夫婦だったと、陸は心の奥でしみじみと感じていた。


 酒に酔った両親が先に眠ってしまうと、陸は鞄の中身の整理を始めた。それは今までにも習慣的に行われてきた行為で、旅行に来たからといってやることに変わりはない。


 昼間に貰った手鏡が新たに加わり、彼のリュックサックはその分の重みを得ていた。タオル、折り畳み傘、マジックテープの財布、常備薬を収めたジップパック、それら一式を鞄から取り出し、また丁寧に配置し直す。


 鞄へ戻す前に手鏡をタオルで巻きつけ、常備薬の内容を確認した。頭痛薬、胃腸薬、酔い止め、それと、――小瓶に収められた白い粉末。それらすべてが揃っていることを確認し、ジップパックをきちんと閉じる。


 カーテンを僅かに開いて外を眺めると、大きな月が浮かんでいた。昼間に漂っていた分厚い雲は姿を消し、澄んだ夜空に無数の星たちが煌めいている。


 カーテンを元に戻して布団に入ると、彼は目を開いたまま辺りに広がる暗闇をじっと見つめていた。そうしていると徐々に空間の認識能力が失われ、眼前には黒い壁があるようにも、至近距離に人の気配があるようにも感じられた。今では自分が目を開いているのか、はたまた目を閉じているのか、そんなことすら分からなくなった。


 彼は、眼前に向かって腕を伸ばした。手の動きを目視することは叶わなかったが、深い闇の中で指先に触れるものがないことが分かると、目の前に立ちはだかる架空の影はその瞬間に姿を消した。

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